人間が生きていく上で、避けられないのはなんらかの生存競争である。(略)入学試験、卒業試験、就職試験、またよい配偶者をつかむチャンスなど、どれをとってみても、幸運をつかんだ者は他人をけおとしてつかむわけである。
世の中で幸運といわれるものに恵まれた人のかげにはいつでも不運に泣く人が存在する、と言っても言い過ぎではないだろう。
神谷美恵子
ウィンウィンという言葉がある。それは「こちらもOK、そして相手もOK」という、他者との関係におけるある意味での理想形を指す言葉である。
しかし、現実問題として、物事はそう容易にウィンウィンの関係になることはない。なぜなら、この世界のルールは、基本的に勝者によって決められるからである。
それはまさに「勝てば官軍」であり、競争の勝者はあらゆる面で正当化されるが、敗者は負けたことが罪であるかのように、その正当性が著しく貶められる。
敗者の言葉は「負け犬の戯言」として軽視され、勝者は何をしても許される。そして、勝者が多くを得、敗者は多くを失う。だが、本当にそれでいいのだろうか。勝者のみを称賛し、敗者に憐れみではなく軽蔑を向ける社会が、本当に良い社会と言えるのだろうか。
そんな疑問を、私は感じている。
はじめに
「椅子取りゲーム」という言葉は、世の中の本質を端的に示す言葉である。それが示すのは、「誰かが得をすれば(勝てば)、誰かが損をする(負ける)」という、極めてシンプルなルールである。
受験、就職、結婚。人生において、自分が学校に合格すれば必ず誰かが不合格になり、自分が会社に採用されれば、その分だけ必ず誰かが不採用になる。自分がAさんと結婚すれば、Aさんと結婚したいと考えていた別の誰かは、Aさんと結婚できなくなる。
こうした競争がつねに私たちの人生につきまとうことは、否定できない現実である。この意味で、「世の中で幸運といわれるものに恵まれた人のかげには、いつでも不運に泣く人が存在する」という指摘を否定することはできない。
だからこそ、昨今の風潮ともいえる、勝者のみが礼賛され、敗者を貶める傾向に、私は疑問を感じずにはいられない。
努力した人は報われていい。それと同時に
日本には、「惻隠の情」という言葉がある。この心が失われた社会の行く末。それは、「自分さえ良ければいい」という、究極の自己中心的な社会である。それはいわば、1%が99%を得る社会と表現することもできる。
私は「努力した者は報われるべきだ」と思う。だが、世の中、自己責任のもとで全員が努力の結果、必ずしもそれ相応の結果を得られるわけではない。競争が行われる限り、絶対に誰かが必ず敗者となる。そして、ときに、勝者でさえ敗者に転落する。
さらに重要なのは、人生には最初から、こうした競争の土台にさえ立てない人もいる、ということである。それを言い換えるなら、「努力だけではどうにもならない」人生がある、という現実である。
こうした不公平かつ理不尽な現実がある以上、人生は必ずしも自己責任で片付けられるものではないし、自己責任で全てが片付けられてしまうのであれば、それは99%の人々にとって、生きにくい社会であると私は考える。
「自分」を前提に世界を見、評価する人々
人生には、「自分が経験してみないとわからないこと」が多い。自分にとって「当然」と思われるものでさえ、実はそれが当然ではないことに気づかない人は多い。
例えば、やたら「自己責任」を主張する人に限って、恵まれた環境が与えられていることを認めない、もしくは気づかない傾向があるように思う。
例えば、この世界に生まれ落ちた段階から既に、個人の資質や能力とは無関係に、「持っている」人がいる。彼らにとって、お金を人に配ることには何の痛みを感じず、10万円程度のお金は「はした金」「小遣い」なのかもしれない。
彼らはそんな「豊か」な暮らしをしており、それが彼らにとっての当然なのだろう。だが、多くの人にとっては違う。ほいほい他人に10万円ものお金を配ることは、容易ではないだろう。
恵まれている人は、恵まれているがゆえに、その恵みを軽視する。彼らは決して、1日1,000円~の食費で食いつなごうとする人々の現実に気づくことなく、自分たちの「当然」を前提に、世界を見、物事を考えるだろう。
最後に
先日、ネットでとある興味深い書き込みを見た。それは、とある有名な経済学者の話である。彼は国政に関わり、彼の提言した政策によって、多くの人々の運命が変わった。そのため、彼は毀誉褒貶が激しい人物として知られている。
彼は大金持ちであり、地位も名誉も持っている。とすれば、それは一つの成功した人生となるはずだが、そのネットの書き込みによると、現実は違うようである。
状況はこうだ。ネットに書き込みをした人物が、とある場所でA氏を見かけたため、近寄ったらしい。すると、彼はオドオドした態度で、早急にその場所から去ったという。
書き込みをした人物は、「彼が自分の評判について気にしており、いろんな人から恨みを買っていることに気づいているからこそ、自分の安全のために、終始周囲に気を使わなければならない状況を察した」と述べている。
いくら地位や名誉、富があろうとも、人生に勝ち続けたように見えたとしても、その勝ち方に問題があるのであれば、心に平安は訪れない。勝ち組として現実的には勝ったように見えたとしても、人生の審判は、「絶対にごまかしがきかないもの」なのだろう。
出典
『神谷美恵子の言葉 人生は生きがいを探す旅』