人は逆境に立つ度毎に自分の周囲を”ふるい”にかけるがよい。自分にとってニセモノとホンモノとが、このときくらい明瞭にわけられるチャンスはないからだ。
あるいは”ふるい”にかけることによって、ほとんどの友を失う破目となるかもしれない。しかし、これを恐れてはならない。たった一人でも心友が残ったら、それだけでもたいへんな収穫なのだ。
伊藤肇
人生がうまくいかなくなったとき。それはある意味で素晴らしい経験である。これから最高に幸せな人生を築くための、絶好のチャンスと言っていい。
なぜか。人生がうまくいかなくなったとき、それは私たちの人生においてニセモノとホンモノがこれ以上ないほど明確になるからだ。
人生において本当に価値があるものは、順境のときにその存在を気づくことは難しい。だが人生がうまくいかなくなったとき、その存在はこれ以上ないほどハッキリと、あらわになる。
どれだけニセモノに囲まれていても、それらは所詮ニセモノである。人生における本質的なものではない。だからこそ重要である。「何が自分にとって、ホンモノなのか?」を知ることが。
はじめに
本当に大切なものは、普段気づいているようで気づいていない。そして皮肉なことに、本当に大切でないものに限って、「これは私にとって大切である」と錯覚しがちである。
例えば「後ろから撃たれた」という表現がある。これはつまるところ「裏切られた」ということを意味する言葉なのだが、「後ろから撃たれた」という言葉を使うとき、そこには「仲間だと思っていたのに」というニュアンスが込められる。
だが冷静に考えてみると、「仲間だと思っていた」のはこちらの一方的な意識であって、相手にとってこちらは「貴殿は私にとって都合が良い存在だったから、一応仲間のふりをしていました」という程度の存在だったかもしれない。
この例は極端かもしれない。だがしばしば人生には、このような「認識の違い」が起こる。自分自身が本当に信頼できるものとそうでないもの、ニセモノとホンモノを区別できていなかった結果として見せられる現実が、しばしばある。
この意味で「後ろから撃たれた」ことそれ自体はポジティブな出来事ではないかもしれないが、人生という枠組みでそれを考えれば、それは必ずしもネガティブな出来事ではない。
改めて、「何がホンモノなのか」に気づくための機会が与えられたからである。
逆境によって、人を見る目を磨くチャンスが与えられる
「人を見る目」は誰のせいにもできない。結局のところ、すべての責任は自分に起因する。「後ろから撃つ」ことは決して人として肯定される行いではないが、それは現実問題しばしば起こる。
であるなら、そこで顔真っ赤にして相手を非難するよりも「人の見る目を、磨かせていただきます」と考え糧にした方が、今後の人生において建設的である。
今、自分自身が考えたこと、「◯◯はこうである」と信じていたことが実際の現実と違っていたのであれば、それは自分自身の見る目がまだまだ十分でなかったという現実に気づく。だがそうしたなかでも何かは必ず、残っている。
確かに「後ろから撃たれる」ことはあるだろう。だがそれと同時に、その機会があったにも関わらず決して「後ろから撃つ」ことはしなかった人もいるということ、そのとき盾となりこちらをかばってくれた人がいたことにさえ気づく。
だからこそ問題は絶好のチャンスである。実際の経験を通じ、改めて「人を見る目」、そして「物事を見る目」を磨き、ニセモノとホンモノの違いに気づくための、最高のチャンスである。
ブルータスは、再び現れる
人生で逆境が訪れたとき、そこに顕れるのは否定しようのない事実、すなわち現実である。それは既にそこにある。それをどう言い繕っても、否定することができない。だからこそ真実はすべて、明白になる。
虚飾や虚栄、そういったものが剥がされ、本当に大切なもの、価値があるものに気づかされる。表面ではなく裏面にあるものに、気づかされる。それは人生の順境では経験することができない、貴重な経験である。
順境において「目が曇らない」ことはとても難しい。順境は順境であるがゆえに、あらゆる罠が潜む。道を進む途中で、至るところに地雷が埋め込まれる。
「ブルータス、お前もか」という現実が訪れたとき、相手を責めるのは容易だし、誰にでもできる。だがそんなことをしていてもその先にまた、新たなブルータスが現れるだけである。
むしろ意識を向けるのはブルータスではなく、ブルータスにならなかった、数少数の人である。
数は一見頼りになるように思える。だが本当の意味で頼りになるのは、数は限られているかもしれないが、状況条件に関わらず常にともに寄り添ってくれる、心を起点につながる人々である。
それこそがまさに人生において大切にすべき、ホンモノなのである。
最後に
大切なものが本当に大切であると分かるとき。真に信頼に値するものを知るとき。それは人生でまさに、逆風が吹き荒ぶ瞬間である。
このとき何らかの目的、すなわち「もう、あなたには用はありません。なぜならあなたといることは私にとって何のメリットもないからです」という人は何のためらいもなく、あなたのもとを去っていく。
だがそれは、本当に問題なのだろうか。人はそれぞれ目的があるし、確かに人は「利」で動く。それはそういうものなのだから、鼻息を荒くして「そんなことは間違っています!」と主張することに意味はないし、賛同も得られないだろう。
それでもなお、この世界には「利」よりも自分自身の「信条」を大切にする人々がいる。彼らにとって「利」は関係ない。
たとえ自分に得がなくても、「一緒にいるメリット」がなくても関係がない。「私はあなたとともにあることを選ぶ」という自身の個人的信条こそが、何よりも優先されるからだ。
数は少数であっても、そんな人々と人間関係を築けることは僥倖であり、光栄の極みである。そんな人々の存在に気づくことができるのは、まさに逆境のときなのである。
出典
『左遷の哲学』