「こうなるはずだった」の外側に、人生の新しい可能性がある

青空の下に立つ女性

人生には、「本当だったら、こうなるはずだったのに」と思う瞬間がある。

「努力してきた。しかし、それ相応の結果が出なかった」

「楽しみにしていたことがあった。それが突然なくなってしまった」

「目標を決めた。計画通りに進めた。しかし、次々と計画が崩れてしまった」

その「思い通りにいかなかった」という結果だけ見れば、それをポジティブに評価することは難しいかもしれない。ときに、理不尽に思えることもあるかもしれない。

だが、もしも、である。「こうなるはずだった」ことがそうならなかったことによって、人生が別の方向へあなたを導こうとしているとすれば?

人生には、いろんなことがある。こうした視点を持つことはきっと、あなたの人生の可能性を狭めてしまうのではなく、広げるきっかけになるかもしれない。

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「うまくいかなかった」ことは、失敗とは限らない

目標を決める。それを達成するための道筋を決める。

そのとき私たちは、その目標が達成されることによって、「こうなるはず」という人生を思い描く。そこには、「Aができるから、Bになる」という青写真がある。

次のように。

「この仕事に就くことで、私の人生は充実するはずだ」

「この人と人生をともに過ごすことで、私の人生は幸せになるはずだ」

「この計画のとおりになれば、私の未来はすばらしいものになるはずだ」

確かに、人生において「こうありたい」という目標を思い描くことは、とても大切だ。目標があるからこそ、道なき荒野に道を見出し、進むことができる。

だが、だからこそ、「こうなるはず」が狂ったとき、私たちは大きな挫折を感じる。ときに、「自分の人生は失敗だった」とさえ、思ってしまう。そう感じてしまうのは、自然なことかもしれない。

だが、同時に真剣に考えるべきことがある。それは、自分が思い描いた現実が実現しなかったことが本当に悪いことなのか、ということだ。

「予定から外れた」からこそ見つかるもの

人生が思い描いたとおりになる。それはいわば、「予定調和」の世界である。すべては見込みがあり、予想がつく。

何歳頃にはこうなり、その数年後にはこうなる。未来のおおよその姿まで、予想がついている。それはほんとうに、実現可能なのだろうか。そもそも、人生それ自体は、予定調和の産物なのだろうか。

否、むしろ人生とは、私たちが思い描いた現実を経験する物語というよりむしろ、予定外の連続で、私たちをハラハラドキドキ、そしてときに不安にさせる物語ではないだろうか。

何が起こるか、わからない。計画はあっけなく、台無しになる。だからこそ、「予想外」「想定以上」の、素晴らしい出来事が起こることがある。

たとえば、である。大きな失敗をした。それによって現実は、どん底を迎えた。だがそのどん底で、新しい出会いや、そのときにしかできないことを見つけた。

それを自然に追いかけていった結果、自分が「予想」していた人生とは、全く別の人生を歩み、全く別の自分と出会った。そんな不思議な出来事が起こる。そこに、計画は一切ない。予定もない。

「なぜ?」だけを問わない。そのかわり

「こんなはずじゃなかった」を経験したまさにそのとき、頭のなかに最初に浮かぶのは、

「どうして、こんなことになってしまったのだろう」

という後悔や、挫折感といった、ネガティブな問いかもしれない。

そのときは、それでいい。「きっと、これはいいことに変わるんだ」と無理やり、ポジティブになる必要はない。

悔いてもいい。立ち止まってもいい。立てないなら、ダウンしてもいい。それはそのときに必要な、人生の大切な経験である。

感情が十分にその経験を受け止めたとき、少しだけ気持ちが変わり始めたときに気づく。そのときでいい。こう自分に問いかけてみる。

「ここから、何かが始まるとすれば?」

すぐに答えは見つからないこともある。だが、そこから少しずつ、見える景色が変わり始める。その問いかけは、過去ではなく未来に目を向け始める、第一歩だからだ。

最後に

「こうなるはず」がそのとおりになるなら、それでいい。だがもしそうならなかったのなら、むしろこう考えてみる。

「自分が、考えてもみなかった、新しい可能性に気づくときがきた」

人生の可能性は、「こうなるはずだった」の外側に見つかることがある。大切なのは、新しい可能性に、心を開いておくことだ。

それは、自分の思ったとおりの形ではないかもしれない。予定や目標とは違うかもしれない。けれども、「それも、ありかも」と心を開いておく。

この心の姿勢が、人生で「予想もしなかった何か」を見出す、きっかけになるかもしれないのだ。