現実は現実としてそこにあったとしても、それはやがて

男性

現実という言葉を、私たちは大人になって幾度となく耳にし、考え、そして思い知らされる。

そして、「大人になる」ということは夢や理想、願望に人生を委ねるのでなく、自分自身に与えられている選択肢を冷静に見極め、現実をもとに世界を理解し、行動することであると理解する。

だがよくよく考えてみれば、それでいいのだろうか。現実はつねに正しいものであり、最優先で尊重し、現実を前提に人生を生きていくことが私たちにとっての最適解なのだろうか。現実を理解できない生き方は幼稚であり未成熟なのだろうか。

それはそうかもしれないし、そうでないかもしれない。だが一つ言えることがある。現実がそこにあるとしても、現実のなかで正しいことは正しいし、おかしいことはおかしいと考えることはできる。

現実は現実としてあることを理解しつつも、それを全面的に受け入れるばかりが人生ではない。「なにかおかしいです」と気づいたときそれは変わる可能性を帯び始める。実は私たち自身に、現実それ自体を変える力が備わっているからである。

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はじめに

情報収集に敏感な感覚を持っている人々は既に感じ、そして気づいていることではあるが、私たちは今、激動時代に生を受け、その変化のなかで日常を過ごしている。

私たちが「現実である」と認知する日々、そして世界はそれまで誰かによって築かれ、そして作り上げられてきた世界であるが、その世界が今後同じ形で続いていくことはない。それはいずれ、終わる。

学校で「◯◯時代の次は△△時代になりました」と教わってきたように、私たちが生きているこの時代もまた、変わりゆく。そう、私たちは歴史のなかで生きている。それがほんの短い時間のなかであっとしても、である。

時代が変わるとき、現実などいともかんたんに変わってしまう。英雄と呼ばれた人や尊敬すべき重要人物と思われた人々がその地位を反転させ断罪されてしまうように、物事は白から黒へ、大きくその評価が反転してしまうことが起こる。

そのとき、「それは当然です」と当たり前のように考えられてきた現実は一瞬で崩れ去る。だがそれは歴史上、何もおかしいことではない。世の中が特定の方向へ偏れば、それを正す働きが生じる。それによって世の中が大きく変わり、新しい時代へと向かっていく。

大人しいひつじでさえ目覚めるときは目覚める。確かに現実に希望らしい希望はその姿を見せていないように思えるが、何かは確かに、確実に変わりつつある。

そう、現実は変わる。私たち大衆が、現実を変えようと動き始めたときそれは確かに、変わる。

始まりは「知る」こと

現実を現実として継続させるためには必要不可欠な条件がある。その一つが、強い不満や疑問となるような情報や事実を人々に見せないこと、そして知らせないことである。

かつて、人々が何かを知るための機会や方法は極めて限られていた。だからこそ、それぞれ様々な不満や疑問を感じつつも、「これが現実だから仕方がない」とそれ以上、現実を変えるためのアクションを起こさせないようにコントロールすることは容易だった。

ところが今や、誰もが様々な情報に触れることができる時代が到来した。そして特定の情報源に信頼を置く主要顧客の人々ですら、もはや特定の情報源を鵜呑みにしない状況になりつつある。

それぞれの人々がそれぞれの関心に基づき情報を集める。情報を集めることによって「比較対象」が増える。そしておかしいことをおかしいと感じるようになる。こうした動きはそれぞれの分野で働き、集合知となる。

確かにネットなどの「情報源」には誤りや不正確な情報がたくさんある。だがそれらは「一方通行」ではない。誤りを指摘される人物が登場し、不正確な情報はやがて淘汰される。

私たちは自分から情報を探しに行かない限り知るべきことを知ることができない。だが、「求める」ことでそれは与えられる。すなわち選択肢は私たち自身が持っている。

今や、私たち自身が知るべきことを知ることによって、そして声を出すことによって、現実を変えうる力を、持ちつつあるのである。現実と思っていたものは、私たちが知り、動くことによって、変わっていく。

思考停止状態に気づき、抜け出す。そこから

現実に疑問を感じず、意義を唱えず、そのまま受け入れる。それを思考停止と言う。思考停止で居続ける限り、現実は現実として存在し続ける。なぜなら現実とは結局、「そうあって欲しい」という考えによって作られた枠組みだからである。

「◯◯歳までに△△しないと人生は積みます」

「今すぐXXしましょう。XXすることが現役世代のトレンドです」

様々な現実を私たちは教えられるが、それらを「自分で考えてみる」というプロセスを挟まず受け入れることによって私たちは、思考停止に陥り続ける。

その結果「作り上げられてきた」現実は、誰かにとって都合が良い現実かもしれないが、私たち自身にとって望ましい現実とは限らない。

私たちが日々生活していくなかで、「なにかおかしいのではないか」と感じたとき。なぜそれを「おかしい」と感じるのかを自分なりに考えてみる。他の人の考え方を知ってみる。

それによってその現実が実はこれからもあるべきものではなく、変えるべきものであることに気づく場合もある。そのとき私たちは「ノー」と言うことができる。

現実はそこにあったとしても、それが「ノー」であるならば、その考え方は尊重していい。その上で、なぜ「ノー」なのか。その理由を誰かに伝えていい。私たちには自分の考えを誰かに伝える、自由があるのだから。

最後に

良くなる前に、悪くなる。これは物事の構造上仕方がないことである。できればすべてぶっ壊れてしまうほど、悪くならないほうがいいのかもしれない。

だが、長きに渡って築かれてきたもの、築かれてきたように思えたものがぶち壊れてしまったとき私たちは、ようやく目が覚める。そしてそこから何を再び築き上げるべきなのか、気づくことができる。

そのとき私たちは多くのものを失ったように感じるかもしれない。「もはや、お先真っ暗だ」と、絶望に心を支配されそうになってしまうかもしれない。だがそのとき必ず見える。暗闇のなかもでかすかに光っているものに。

変化が起こり始めれば、現実は劇的に変わる。そしてあとを振り返ったときに改めて気づく。「夜明け前は確かに、一番暗かった」と。