
妙なもので、われわれはよくリズムなんていうけれども、辛いこと苦しいことは起こるときは次から次へとやってくる。
貧乏クジは、もうこれでもかこれでもかという具合に引かされるんです。そういうときはたしかに海の底に沈みつつある状態であるといえるでしょう。
そのとき、もがけば体はさらに沈んでいく。力を抜いて、水に身をまかせれば、体はゆっくり浮かび上がっていくんです。
つまり人生、大きな海の中にいるようなものなんだから、その大きなものに任せるという気持ちが必要なんです。
遠藤周作(『考えすぎ人間へ』より)
人生には、どうにもならない、流れのようなものがある。
自分が過去にしたこと。それが今、何らかの形で影響が現れる。そんな「因果」のようなものがある一方、「え?それは私、全く関係ありません」という外的な事柄によって、人生が劇的に変わってしまうことも、確かにある。
だからこそ、私たちは「大きな海の中にいるようなもの」という認識を、持たざるを得ない。ただしここで重要なのは、それは「私たちが流されるだけの無力な存在である」ということを、必ずしも意味はしない。
自分ではどうにもならないことが起こったとき、その流れのなかで、溺れないように必死に抗うことはできる。また、その流れは良い場所へ運んでくれることを信じ、「あえて」流されるという選択を、意識的に選ぶこともできる。
何が起ころうと、「そこで、どうするか?」という選択肢だけは、常に私たちが選ぶことができる。それは確かに私たちの、力であり、権利なのだ。
はじめに
「人生はすべて、自分が思い描いたとおりになる」
この考えには、半分賛成で、半分反対だ。
なぜなら、人生は私たち自身が明確な意図を持つことによって切り開かれる道がある一方で、私たちが意図を持とうが持つまいが、それとは無関係に起こり得る出来事によって、「なぜ?」と思わざるを得ない、現実が訪れうるからだ。
例えば、ここに、ごく普通の日常生活を送っている人がいる。人に恨まれることもなく、ごく平凡な、普通の人生を送っている。朝起きて、仕事へ行く。仕事が終われば、家に帰る。そんな日々が続く。
だがある朝は違う。朝起きる。仕事へ行く。その途中、突如、信号を無視した車に、突撃される。そして病院へ入院しなければいけなくなる。
この人は、何か理由があって、車に突撃されたのだろうか?もちろん、そんなことはない。理由などない。「朝、そこにいた」ただそれだけである。
そのとき私たちは、理不尽な現実に立ち尽くすしかない。どれだけ健康に気を使い、どれだけ真面目に生きていても、「波」は容赦なく、そして突然、足元をすくう。
この例は極端かもしれない。だが、自分の意識や責任とは関係なく、起こることは起こる。だからこそ、私は別の記事で、「自己責任論を一般論にはできない」と書いた。

「もがく」ことを手放す意味
あるべき未来を思い描き、最善の人生を実現しようと努力し、前進していくその途中でさえ、「貧乏クジは、もうこれでもかこれでもかという具合に引かされる」ということは、起こり得る。
そのとき私たちは、「もがく」。なぜなら、「もがく」こと、つまり「自分の努力や行動によって、その現状を変えること、もしくはコントロールできる」と考えるからだ。
確かに、それが功を奏することもある。だが逆に、「もがけば体はさらに沈んでいく」ことも起こり得る。
だからこそ、である。遠藤周作さんはむしろ、「あがくな」と説いている。「力を抜いて、水に身をまかせれば、体はゆっくり浮かび上がっていく」からだ。
これは、とても大切な指摘である。そのメッセージは明白だ。苦しいときこそ、自分ではどうにもできない、コントロールできないことを、手放す勇気を持つのである。
人生「全て」をコントロールできない。それでもできることがある
ここで一つ、重要なことがある。自分ではどうにもできないこと、コントロールできないことを手放すことは、人生をあきらめることでは決してない。
遠藤周作さんが説く「もがくな」とは、明確な選択である。それは、「体が浮かび上がったあとに生き延びるため」の、自覚的な選択である。
流れに流され、海中を漂っているなか、その流れをじっと、観察する。今、自分はどこにいるか。どの方向に、流されているか。冷静に、集中する。そのなかでさえ、それが小さなことであれ、自分ができることがあることに、気づくはずだ。
私たちはその流れに抗うことはできないかもしれない。「人生全体を思い通りに描ける」という考えは幻想かもしれない。
それでもなお、今ここの足元を見つめ、ほんの小さな一歩を踏み出すことはできる。そしてそれは、あなた自身の「意思」によって選択される尊い一歩なのだ。
最後に
もう一度、冒頭の遠藤周作さんの引用を読み返して欲しい。この言葉は、「あきらめ」の言葉ではない。むしろ、人生をしなやかに生きようとする、力強さが込められていることに、気づくはずだ。
「思い通りの現実」ではなく、「思い通りにならない現実」ばかりが訪れるかもしれない。「貧乏クジは、もうこれでもかこれでもかという具合に引かされる」かもしれない。それでもなお、私たちは必ずしも、無力ではない。
私たちは、流れに流されている中でさえ、活路を見出すことはできる。流れを見極め、大きなものとつながる。そして最後には、納得する。「これで良かった」と。
光は、闇のなかこそ映える。闇が暗ければ暗いほど、光はその輝きを強くする。たとえそれが、ほんの小さな、かすかな光だったとしても。

