「今、自分の人生は詰んでいる」
この状態こそが八方塞がりである。
人生に何を願うかは人それぞれだが、「私の人生は多少の波はあれどうまくいっています」という人生を選ぶことができるのであれば、「問題は避けたいです。私は落ち着いた人生を望んでいます」とあなたは言うかもしれない。
だが何らかの理由であなたがその人生で八方塞がりという状態を経験することになった場合、それが必ずしも不運であるとは限らない。この記事ではその理由についてお伝えする。
はじめに
2020年を契機として「私の人生に転機が訪れました」という話を聞く機会が増えた。人生の転機、それは今までの生き方とは違う生き方へと切り替わることを意味するのだが、そのときに訪れるのが八方塞がりという状態である。
今まで「当たり前」と思っていたものが失われていく。自分が当然のように描いていた「あるべき未来」が突然閉ざされる。人生の計画は強制的に変更され、「どうしよう・・・」と迷い悩む現実が目の前に押し寄せる。
にもかかわらず、どこへ行けばいいのか分からない。何をすれば光が見えるのか分からない。そんな状態に陥るのが八方塞がりの時期である。ここで悩みや不安を感じることは当然のことである。
現在その人生に八方塞がりの時期が訪れた結果、「先が見えない」「もうどうにもならないかもしれない・・・」と不安に思ってもいい。悩んでもいい。だが一つだけこれだけはつねに、忘れてはいけないことがある。
「それは必ず終わる」という事実である。その上で更に朗報がある。絶望の次は希望が。最悪の後には最高が訪れうるという人生の不思議である。
「人生が好転した人」が経験していること
人生が好転する人、そしてこれから幸運が訪れる人には典型的な共通点がある。それは、大きな人生のブレイクスルーが訪れる前に最悪の出来事、すなわち「自分ではどうにもならない八方塞がりの状態を経験している」ということである。
たとえばこんな話がある。青森のとあるところに「農薬を使わず自然の農法でりんごを作りたい!」と志を持つ男性がいた。彼は無農薬のりんごを作ろうと努力し、何年もその取組みを継続するも、無農薬のりんご作りはうまくいかない。
やがて周囲の人々からは「かまどけし」と言われるようになり、収入を得ることもできず家計は火の車である。そんな現実のなかで男性は「もうだめだ。家族、人様に迷惑をかけてしまった」と思い悩み、一人で責任を取ろうと山に登っていく。
そして男性は自分の人生に責任を取ろうとするも失敗し、足を滑らし地べたに転げ落ちる。そこで、「農薬を使わずとも、自然に木は成長し、育つ」ということに気づく。これがブレイクスルーとなり、やがて男性は「奇跡のリンゴ農家」として知られることになる。
すなわち、「もうだめだ・・・」という絶望の底に到達したタイミングを契機に、運命のブレイクスルーが起こるのである。
だからこそ、何をしてもうまくいかない。もう自分にできることはない。どうしようもならない。そんな絶望の状態のときでさえ、それは「人生の詰み」を意味しているとは限らない。
それは人生の一過程であり、八方塞がりの状態になってこそ初めて見えてくるものがある。そして後に気づく。「それは自分の人生が大きく変わるために必要な過程の一部であった」ということに。
「失くす」は「得る」前に起こる事象
「爪に火をともすように、お金をためてきました。やっと1000万たまったところで、投資詐欺に遭いました。そしてすべて失いました」
「41歳で突如会社をリストラされました。就職先を探しているのですが、30社以上面接の前に断れてしまいます」
「夫に3000万もの借金があることがわかりました。家を手放しましたが、まだ生活は苦しいです。先も見えません。子どももいます。離婚も考えています」
人生で「もうだめかもしれない」「何をしてもどうにもなりそうにありません」というような危機的な状況が訪れたとき、目の前の問題があまりにも大きすぎて、何より現実があまりにも厳しすぎて、もはや自分の人生はどうにもならないのではないかと、天を仰ぐ。
だが繰り返す。その状況はあくまで長い人生における一場面である。そして、その場面は永遠には続かない。やがて変化のときが訪れる。
現実に何一つ希望が見いだせない状況のなかで、「実はあなたの人生は、今のどん底を契機に好転していく可能性があるのです」と言われても、ただの戯言のように感じるかもしれない。
だがすべての状況はやがて変わる。どん底はどん底だからこそ、それ以上下がるのではなく、上がっていくのが自然なのである。「陰陽転化の法則」のとおりに。
改めて、人生を再整理する
「今、自分にできることはなにもない」
「何をしてもうまくいかない、どうしようもならない」
「頑張ることに疲れてしまって、どこにも行けそうな気がしない」
「八方塞がり」のときに大切なこと。それは今すぐそこから抜け出そうとすることをやめることである。そして「状況はきっと変わる」という可能性を信じることである。
一つの仮説だが、人生には一定の周期があるように思う。その周期において、人生は「やり直し」状態に陥るタイミングがあるようだ。
例えば、算命学が説くところの「天中殺」の時期であったり、いわゆる「厄年」であったり、「人生のこの時期はいろんな問題が形になって出やすいです」という時期がある。
この意味で八方塞がりの時期とは新しい人生が変わる前に起こる通過儀礼的な時期のように思う。何もかもうまくいかない。今ここに立ち止まるしかない。そして断捨離が自動的に起こる。だからこそ人生を再度、整理することができる。
人生で八方塞がりの時期が訪れたときは自分自身が今、どのような経過をたどった結果その状態に訪れたのか?この先の人生で自分にとって必要は何なのか?真剣に問い直すために与えられたチャンスを生かそう。
それはきっといいことに変わる。途中経過がどうであれ、きっといいことがある。
最後に
人生が好調であればあるほど人は、自分が持っているものをそれがあることが当然の権利のように錯覚しがちである。
お金があって当たり前。仕事があって当たり前。パートナーがいて当たり前。住む家があって当たり前。健康であって当たり前。人生がうまくいって当たり前。「◯◯があることは当たり前」が増えれば増えるほど、傲慢さが心のなかでうごめき、やがて共感性を失い無自覚に業を生み出す。
だが人生で行き先がないほどの八方塞がりを経験し、「◯◯を失う」「人生に絶望する」という経験をした人は、失うことの悲しさや先が見えないことの苦しさ、生きることの悩みをかみしめる。
その経験は自分のことだけでなく、人の苦労さえも感じ取ることができる共感性を育む。そして、生きることの悲しみだけでなく喜びさえもより深く、かみしめることができる。これは大切な学びである。
だからこそ人生の八方塞がりを経験することは大きな試練かもしれないが、無駄ではない。人生はこれからきっと良くなっていく。そのあといつか気づくだろう。「人生で詰んだ、八方塞がりの時期があったからこそ」生きる意味が感じられることを。