人生は何かを失い続ける過程。それでも必ず生きる意味は

手のひらから芽生えた希望

あなたはまだ若いから、人生とは何かを獲得していくことだって思っているかもしれないし、あたしにとってある時期までは、そういうふうに見えた。

でも本当は、人生って失っていくことじゃないかな、って思うの。その失い続けるなかで、そのたびに、本当の自分自身を発見していくしかないんじゃないかな、って。

風間沓子

私たちは人生に、様々なものを期待する。

学歴。仕事。パートナー。家族。何かを得るために努力し競争し、「よりよい自分」になろうとする。人生とはそんな、何かを積み重ねて作り上げていくものだと信じている。

ところがそれは本当に正しいことなのだろうか?

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人生は最終的に引き算である。

例えば、私たちはどんな人であれ必ず年を取る。この世界に生まれ落ち、成長し、そして年を取っていく。その過程で誰もが必ず、喪失を経験する。

若さを失うこと。健康を害すること。親しい人を失うこと。夢という名の可能性を失うこと。そして私たちは1年1年、確実に「死」へと向かっている。それは絶対に避けられない運命である。

つまり人生はいくら何かを足し続けているように見えたとしても、現実はそうではないのである。人生必死に足してきたものが、いつか何らかの形で、失われることを想定しておかなければいけないのである。

だから生きる意味ある!

とはいえ、「だから人生は虚しい」とか「生きる価値がない」とか、そういうことを言いたいのではない。むしろ何かを得て何かを失うからこそ、人生は逆に意味があるのではないか?私はそう思っている。

なぜなら、何もかも変わりつつあるなかで最善を尽くし、手に入れたものを失う悲しみを味わい、もはや何もかも一切の希望がなくなったときに見えるもの。それこそが人生においての真実だと思うからである。

そして失ったあとに残るのは本物の自分だけ。学歴や財産、名誉。そんなものは一切関係ない。ただそこに存在している、紛れもない自分そのものである。つまり自分が人としてどうなのか?

最後に問われることは、それだけである。

最後に

この世では何かを得続けることなどできない。むしろこの世は、必死で手に入れたものを失うことによって何かを学ぶしかない、残酷な場所である。

しかし、失うという痛みを感じるからこそ、本当に生きる意味が分かる。そこにいるのは紛れもない自分。何の飾りもない等身大の、真実の自分である。

得るための努力をすることは虚しいとは言わない。ただし何かを得ることだけを考える人生は不毛である。それはそもそも不可能である。

だからこそ大切なのだ。何かを失ったとしても自分は自分。人生は「終わり」ではないことを知ることを。そして、失うことによって見つかる自分がいる、ということを。

出典

映画『四月の永い夢』より