幸福な家庭はすべて互いに似通ったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。
トルストイ
人生における「テンプレ」を追求する。それはいわば、手っ取り早く「分かりやすい」幸せを追求するための手段である。
お金。容姿。仕事。所属する組織や肩書。パートナー。
「○○を得れば幸せ」「○○という人生が正解」というテンプレを求めることで、「自分の人生はこれでOKである」という安心感を一時的に得ることはできるかもしれない。
だがテンプレはテンプレ。それは自分の人生を生きたの証明とはならない。なぜなら、人生の本質とは「得たもの」や「達成したこと」ではなく「問題」という形で提示されるからである。
はじめに
幸せは似通った形だが抱える不幸は人それぞれ。
私たちは外見上どうであろうと、それぞれが自分の課題や悩みを持ち、それらを克服するという過程を通じてに自分が自分であることの理由を知る。
それこそがまさに、今生の人生におけるテーマ。
すなわち私たちが何でつまずき、何で悩むのか。人生という旅路においてどのような障害が立ちはだかるのか。そこに、自分が自分としてこの世界に在る理由を知る、カギが存在する。
人生のテーマ
「もし私に○○があれば」
「もし私が○○さんのようになれたら」
人生においてこのような仮定はあまり意味を成さない。
なぜなら人生で起こる問題の解決策は既に自分自身に与えられており、それは「自分の人生」というテーマと関連する。
「自分が解決できない問題が人生で起こることはない」と言われるのは、人生において立ちはだかる問題こそが、私たちを成長へと導くものだからである。
私たちは問題が起こることによって気づく。自分ができること、自分自身のこと、そして人生から求められていることを。
問題とは「人生からの問いかけ」
悩みなどないほうが生きることは容易い。問題が起こったとき。私たちは今すぐそれを解決し、心安らかな日々を取り戻したいと願う。
だからこそ「問題を分析し、合理的に解決する」という思考は現実的だが、その一方で、問題を「人生からの問いかけ」として捉えることが大切である。
なぜ今、それが起こる必要があったのか?起こった結果それは、自分にとってどんな影響があるのか?
問題にフォーカスするのではなく、それを「人生からの問いかけ」として捉え直すことで、問題は一方的なマイナスではないことに気づく。
それはヒントである。自分の人生を知り、必要なことを学ぶための、ヒントである。
最後に
私たちはそれぞれの感性を持ち、それぞれ与えられているものを頼りに、人生という舞台の上で、自分という役を演じる。
それは自分を演じるからこそ意味があることであって、別の誰かを演じようとしても、あまり意味がない。
なぜなら自分という人物を通じて経験する様々な物事。起こる出来事とそれに対する自分の在り方こそが、それが起こる根本的な理由だからである。
確かに何かを得ること、達成することはこの世界で経験できる喜びである。だがそれは人生のおまけにすぎない。本質とは過程のなかの、体験と気づきなのである。
出典
『アンナ・カレーニナ(上)』