人生を自分自身で「価値づける」。それによって人生は

笑顔の女性

タイプ②の人生論は、過去に「マイナスだ」と感じた体験でさえも、みなプラスに転化しようとします。なぜなら、人間は、自分の過去の体験をすべて受容した時に、はじめて、自分や自分の人生を、心から愛せるようになるからです。

飯田史彦

自分の人生に意味を見出すことができる唯一の人物。それが自分である。

第三者によって自分の人生をジャッジされることはしばしば起こるが、人生の当事者は自分自身であり、ゆえに私たちこそが自らの人生における最終的な審判者となる。

ここで重要なのは「自分の人生」を「自分」がどのように捉えるのか、その視点である。視点の持ち方によって人生の評価は180度変わる。この意味で自分の人生を評価する責任は自分自身にあると言える。

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はじめに

元福島大学教授で経営心理学者の飯田史彦は、「いつか幸福になるための人生論」(タイプ①)と「すでに幸福であることに気づくための人生論」(タイプ②)、人生論に2つのタイプがあることを指摘した。

それらの違いは後述するが、ここで重要なのは「人生とは○○である」という根本の視点、価値観を定めること。すなわち私たち自らの選択によって自分の人生を意味づけすることができるということである。

視点が違うだけで私たちの人生の意味合いは、大きく変わる。だからこそ人生の主体者は他のだれでもない、自分自身なのである。

「いつか幸福になるための人生論」

お金。地位。名誉。パートナー。「○○を手に入れることで幸せになることができる」という人生論が「いつか幸福になるための人生論」である。

自己啓発論の主流はこの考え方であり、自分自身を変えていくことによって何かを成したり何かを得ることこそが成功であり、幸せであるというのが「いつか幸福になるための人生論」である。

それは「人生は自分次第で自分の思い通りにすることができる」という価値観が根底にあり、いわゆる「自己責任論」のベースとなっている。

人生は自分の努力。行動によって「思い通り」にすることができる。そして「思い通り」に作り上げた人生にこそ価値がある。それが成功であり幸せ。これが「いつか幸福になるための人生論」である。

「すでに幸福であることに気づくための人生論」

一方、「すでに幸福であることに気づくための人生論」は今現在がいかなる状況であろうとも、「今ここ」で幸せを見出そうとする人生論である。その前提となるのが、「人生は思い通りにならないからこそ意味がある」という価値観である。

それは、幸せや喜びだけでなく挫折や不運、病気や喪失など、人生で起こるあらゆる物事には価値を見出すことによって自らの精神性を高めていくことを目的とした人生論である。

この人生論を信じることによって、成功の実現やお金が儲かること、素晴らしいパートナーと出会えるといった「ご利益」はない。その最重要目的は「現世利益」ではないからだ。

「すでに幸福であることに気づくための人生論」はポジティブとネガティブ、善と悪、幸不幸、役に立つ役に立たないといった、二元論を持ち込まない。すべての出来事は「今身起こっていることの価値」を自分自身で認識するためのものである。

「人生には何一つ無駄はなく、全ては自分が学び、成長するための経験である」という価値観こそが、その根幹である。

望むからこそ、求めるからこそ

「○○があれば幸せ」「○○を実現できた人生こそ成功」

「いつか幸福になるための人生論」とは言わばテンプレを追い求める人生論であり、それを得ることはたしかに、この世界に存在する意味や、満足感を得られる行為である。

そのためその人生論はその価値を否定されるものではないし、「自分が幸福になるために○○を得ようと努力し、それによって成長していく」というストーリーは、魅力的でさえある。

しかし「いつか幸福になるための人生論」には重要なマイナス点がある。それは、自己実現に失敗した場合の反動。すなわち「○○がない自分は不幸」「○○を実現できない自分の人生は不幸」という、思考に陥りやすいという点である。

実際のところ、いくら私たちが自分の人生を完璧なものにしようとも、強い願いを持って努力を重ねていこうとも「自分以外」の要因によって、予想外のことや思い通りにならないことが頻発する。

また、幸運に恵まれ「○○を得ること」「○○を実現できること」に成功しても、「人の欲望には限界がない」という問題に直面する。

望む年収を実現した瞬間。「最高のパートナー」を得た瞬間。新たな欲望が生じ、「今持っているもの」が色あせて見えてしまうのが、人のサガである。

そのため、いくら何かを得ようとも。何かを達成しようとも。「永遠に満足できない」という罠に陥ってしまうのが、「いつか幸福になるための人生論」の先にある結末なのである。

さらに「○○を得ること」「○○を実現できること」に成功し続けた人には「傲慢」という罠が潜む。

「自分は努力した結果、成功を実現した。それができない人は努力不足であり、人生がうまくいかないのは自己責任である。だから助ける必要がない」という発想へ向かい、他者に対する寛容性を失いがちである。

幸福を保つ天秤

その一方で、「すでに幸福であることに気づくための人生論」の本質は「肯定」である。

今現在、自分自身の状況がどのようなものであれ、そこに何かしらの光、意味を見出そうとする。「自分はOKである」という理由を見出そうとする。

この人生で不満が消えることはない。許容できない現実は常にそこに存在し続ける。だがそれでもなお、「肯定」できる何かを見出し、自分の人生にOKを出す。これこそが「すでに幸福であることに気づくための人生論」である。

「人生は思い通りにならない」ということを前提に、今現在の自分がいかなる境遇にあろうともそこに光を見出す。自分がそこにいる意味を見出す。この視点こそが、思い通りにならない人生を生きるための力になることは確かである。

「○○を得ること」「○○を実現すること」を求めてもいい。欲は欲として肯定していい。成長を望んでもいい。その一方で、「○○を得られない自分」「○○を実現んできない」自分もOKと許容する。

そんなバランス感覚こそ大切ではないかと、私は思う。

最後に

欲を持ち、人生を前向きに生きる。努力し、何かを求める過程で自分自身を成長させていく過程はたしかにあるが、それには限界。そしてマイナス点が存在する。

人生は単純なものではなく、白黒つけることができないあいまいな何かを許容しつつ、自分の人生を歩んでいく旅路である。

であるならば、「自分自身がこの人生で経験するあらゆる物事に価値がある」という考え方はとても合理的であるし、この世界に滞在する時間を、過ごしやすくする考え方である。

「いつか幸福になるための人生論」と「すでに幸福であることに気づくための人生論」。あなたは自分の人生を、どちらの視点で評価するだろうか?

出典

『ソウルメイト 「運命の人」についての7つの考察』