運命とともにあるもの。それが「使命」

答えを探す女性

自分の身近にある自己の「運命」を掘り下げると、それが使命を浮かび上がらせて来るのです。

執行草舟

自分は何者なのか?何のために今ここにいるのか?冷静に考えれば、それらはとても興味深い疑問である。

ほんとうに人生が完全なる偶然によって織り成され、自らの意志とは別の何かによって完璧にコントロールされているのであれば、今ここではなくどこか別の街で、別の誰かとして生きていても違いがないように思える。

しかし、である。あなたは今他のどこかではなくあなたが日常としている場所に存在し、そこを拠点にあなたという人生を織り成している。それにはきっと何か理由があるはずと考えるのが自然である。

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はじめに

なぜあなたはAさんではなくあなたなのか?なぜあなたはあなたの両親のもとに生まれ、あなたの生まれ故郷で育ったのか?それらは全くの偶然なのか?このような疑問に対して、科学的で客観的な根拠を持つ「答え」は存在しない。

ゆえに、なぜ自分は自分でこの人生があるのか?その理由を他の誰でもない自分自身で定義付ける必要がある。そして、その理由を自らが定義付けることによって分かることが一つある。それは、「何のために自分は生きるのか?」という目的である。

人生がもし無意味であるならば生きるためのすべては生存のためでしかない。だから自分さえ良ければそれでいい。「今だけ、金だけ、自分だけ」という考えに至るのは自然なように思える。

だがもし、「何のために自分は生きるのか?」という目的があるならば。人生は生存のためではなく目指すべき目的地を持つ旅路となる。目的地へ向かう旅路、それを大げさな言葉を使うのならば、「使命」と言うことができる。

人はそれぞれ、役割を持つ

私はピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』三部作のファンだ。

ホビット族の青年フロドが、ひょんなことから悪の元凶となる指輪を手にし、それを葬る旅に出る壮大な物語だが、物語がハッピーエンドを迎える上で重要なのがゴラムである。

ゴラムはかつての指輪の所有者であり、指輪の力によって不自然な命を与えられ、それゆえに指輪に執着し、フロドを追跡する。そして彼はフロドの案内を引き受けつつ、フロドから指輪を奪う機会を待ち続ける。

ゴラムは善人ではなく悪人である。過去に殺人も犯している。そしてゴラムはフロドを騙し、フロドの旅の完遂を阻もうとする。だが、ゴラムがいたからこそ最終的にフロドは「指輪を消し去る」という使命を果たすことができた。

すなわち、どんな善なる目的でさえそれは「正しき人々のみ」によって成されるわけではないこと。どんな人にもそれぞれの使命があるということを、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作は私たちに教えてくれる。

大は小を、小は大を動かす

年齢や性別。生活環境。収入。社会的地位。

私たちは何らかの要素をもとに自分と人を比較し「◯◯を持つ自分は価値がある」「◯◯を持っていない自分は価値がない」と、自分自身を値踏みにし、矮小化する。それは自分自身だけでなく、第三者によっても行われる。

それらにより私たちは「自分の人生に意味はない」と考えてしまいがちだが、どんな人であれその人だけが果たすことができる役割を持っている。

偉大なる経営者たれど、その事業の遂行は己の力だけで行うことはできない。彼の戦略を理解し、指示に従い動く無数の人々の力があってこそ、その事業は遂行される。

偉大な権力者が権力を背景にその力を行使しようと、その権力に反逆する人々が多数派となれば、権力者は一瞬にしてその権力を失う。どんな小さい存在であれど、小さな行動が多くの人々を動かし、そして世界を変える「原因」を作ることもある。

人の存在に大小はない。どんな人にも何らかの役目がある。重要なのは「何のために自分は生きるのか?」という問いに対する自分自身の答えに基づいた選択と行動。それこそが「自己の運命」に至る道なのである。

最後に

『ロード・オブ・ザ・リング』三部作ではフロドは指輪を葬るという使命を。そしてゴラムも、(無自覚であるけれど)指輪の力に翻弄されつつもフロドとともに指輪を葬るという使命を果たした。

旅の途中、ゴラムに追跡されていることに不安を感じたフロドは魔法使いのガンダルフに問う。なぜ、ビルボ(ゴラムの次に指輪の主となったフロドの養父)はゴラムを倒すべきときに倒さなかったのか、と。

ガンダルフはこう答える。「死の判断を安易にしてはいけない。その存在が善か悪かはともかく、ゴラムにはまだ役割がある」と。

人生の意味は分からないかもしれない。だがきっと何か、役割がある。それを見出すことそれ自体が、「生きる」ということなのだ。

出典

『超葉隠論』