とにかく生きているんじゃないか、幻想の中でじゃなく、現実に生きているんだ。なぜなら、苦悩こそ人生にほかならないからね。苦悩がなかったら、たとえどんな喜びがあろうと、すべては一つの無限なお祈りと化してしまうだろう。それは清らかではあるけど、いささか退屈だよ。
イワン
3分間だけ、じっくり想像してみてほしい。
今のあなたは完全に、あなたが思い描く理想の人物である。そしてお金に家、仕事、人間関係、文字通り「すべて」あなたが望むがままの完璧な人生がそこにある。そんな姿を、想像してみてほしい。
その上で真剣に考えてみてほしい。「もしこの現実世界がすべて、自分にとって完璧な世界であるなら。何もかもが思い通りの人生であるならば。その人生を生きる意味はあるのか?」と。
はじめに
逆説的な話だが、人生で問題が起こるからこそ。最高の現実がそこにないからこそ。むしろ人生は輝き、そしてその価値が増す。すなわち人生は思い通りにならないからこそ生きる意味が生じる。
自分自身が感じたことがない痛みを想像することは難しい。痛みを知らないとき私たちは、「痛みを知らない」からこそ残酷になれる。
しかし私たちがそれぞれの現実に痛みを感じ、「不完全」で「満たされない」ものがあるからこそ、必死にこの生において経験する事柄から何かを学び、成長することができる。この仕組みを知ることはとても重要である。
痛みは「目覚め」である
ときに現実は心を押しつぶす。
だがもし私たちが感じている苦しみ、挫折、限界、失望に意味があるのであれば、それらはムダな経験ではない。それらを経験するに値する、重要な経験となる。この意味で人生で感じる様々な痛みとは、私たちの目覚めを促す呼びかけである。
人生が不完全であり、そこには様々な痛みを感じる。ゆえに私たちはその痛みに向き合うために、人生で様々な行動を要求される。
その過程において私たちに新たな場所、そして出会いが用意され、自分では気づかなった能力に気づき、新たな可能性が生じ始める。それらのすべては、人生で経験する痛みから生じる。
この意味で「自分が悩んだこと、苦しんだことこそが最も誰かを幸せにすることができる」という指摘は真実である。
完璧、ゆえに虚しい
だがもし、私たちの人生が完璧であるならばどうだろう?
その人生で使い切れないほどのお金がある。売っているものであればすべて買うことができる。周囲の人はみなあなたをまるで王様のように扱い、あなたに媚を売りへつらう。あなたはエネルギーに満ち溢れ疲れを知らない。あなたのやることはすべて完璧に成功する。
そのような人生において成長や学びは起こらない。それどころか「私の人生の完璧である。人生でつまずく人はその人こそが問題である」と非情なまでに他者に対して傲慢になれる。自分を疑うことを知らずその慢心はまるでバベルの塔の如きである。
そして完璧であるからこそやがて、その人生を生きることに倦み疲れ始めるだろう。
最後に
痛みやつまずきに鈍感であることはある意味で、とても恐ろしいことである。だからこそ私たちは自分自身の人生に起こる問題を通じて人としての自然な感性を育み、生きることの価値を学ぶをことができる。
理想の人生は自分の思い通りの現実がそこにあるかもしれない。人生の大部分が思い通りになるかもしれない。それは素晴らしいことである。楽しい時間を度々味わえるだろう。だがそれがどうしたというのか?
結局、私たちはこの世界に滞在できる時間は限られている。その時間はこの長い世界における、瞬きのように短い時間である。だからこそ最終的に問われるのはその限られた時間を「どう生きたか?」「そこから何を学んだのか?」なのである。
人生の価値は何もかもが満たされた状況ではなく、逆風や暗闇のなかにこそ見出すことができる。だからこそ人生は問題があってもいい。完璧でなくてもいい。自分の思う通りの人生でなくてもいい。それで、いいのだ。
出典
『カラマーゾフの兄弟(下)』