幸せなんて、かんたんにはなれなくていい。

雨の日だって気にするな

完全な善人が完全な幸福を与えられるものかどうかは、この世の中をいくら見ていても絶対に決められないことです。

ただこれだけは言えるでしょう。

それは、眼に見える善に比例して眼に見える幸福が与えられるとは必ずしも言えないということです。

あらゆる自然の禍、いや政治的な禍さえそのほとんど全部が、悪人善人の区別なくふりかかってきます。

飢饉の災難には善人も悪人も同じようにひどい目に遭うし、党派争いの厄難にも大した違いなく巻き込まれます。

嵐にも共に沈み、敵の侵略には善悪ともに国外に追われます。

ただ善人に与えられるのは、良心に省みて恥ずることなしという気易さと、いつかは幸福になれようという落ち着いた見通しだけです。

これがあるから我々は災難も辛抱強く耐え忍ぶことができるのでしょうが、耐え忍ぶというのはやはり苦痛を前提としていることは間違いないのです。

ネカヤア

人生の大きな皮肉の一つ。

それは、「幸せになりたい」と幸せを追いかけている間は絶対に幸せになれず、「もう自分の人生はこれはこれででいいんだ」と諦観した瞬間に幸せがそこにあることに気づくこと。

求めているうちは決して手に入らずに、それがどうでも良くなった瞬間に手に入る。

なんと人生は、天の邪鬼なことだろう。

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幸せでなくても困らない

もしかしたら、自分の人生が幸せだとか不幸だとか、そんなことにこだわる必要は少しもないのかもしれない。

人生何がどうあっても、自分ではどうにもできない運命があって、それに流され流されるのがそもそも人生。

これは無責任すぎるかもしれないが、人生自分ではどうにもならないことがたくさんある。

良いこともあるし悪いこともある。完全に幸せしかない人生などないのだから、むしろスッキリ割り切ることが大切なのかもしれない。

大切なのは自分が自分の人生に納得すること

この世の中で完全に幸福になれるのは、ある特定の人々の特権である。

多くの人はその人生で山あり谷あり。幸せだけ感じて生きていくことは、不可能な人生を送っていく。

大切なのは幸せだろうがそうでなかろうが、生きていくこと。それ自体にある。

幸せかどうかなど、長い目で見れば関係ない。自分の人生を自分なりに生きていく。そうすれば最後にはそれなりに納得できる。

そして気がつけば幸せがそこにあった。案外、そんなものなのかもしれない。

出典

『幸福の探求』(岩波文庫、2011年)

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