リョーヴィンは、私とはなにものであるか、なんのために生きているのか、ということを考えると、その答えを見出すことができなくて、絶望におちいった。
しかし、もうそれを自問しなくなったときには、私とはなにものであり、なんのために生きているかということも、なにかわかっているような気がした。
トルストイ
なにかを探しているときほど探しているものが見つからない。これは人生のよくあるお約束の一つである。
「(あるべき)自分の人生」や「理想の生き方」を探しているとき、それは見つからず常に「今の人生はOKではない」「別の生き方があるのではないか?」という漠然な思いに駆られ続ける。
だが、「自分の人生」をここではないどこかに探し求めることをやめ、今ここにある人生を受け入れたときふと気づく。これが私の人生なのだ、と。
はじめに
「◯◯大学を卒業していれば」
「年収が△△△△万円あれば」
「理想のパートナーがいれば」
私たちは、「自分にないもの」によって自分の現実が不十分であると思い込み、「自分にないもの」を手に入れたり何らかの方法で補うことによって、人生を良くすることができると考える。
確かに、自らの意思に基づいた行動によって「自分にないもの」を手に入れようとすることは学びの過程であり、実際にそれを手に入れることで「私の人生はうまくいっている」という実感を一時的に得ることはできる。
だが「自分にないもの」を求め続け、そしてそれを手に入れることと「最高の人生」や「成功」といった価値を固く紐付けるのであれば、やがてその生き方は行き詰まる。
その行為の本質は、「◯◯がない、だから自分の人生は不十分である」という思い込みに基づいているからである。
「◯◯がない、だから自分の人生は不十分である」という思い込み
生存に関係する問題を除いて、「◯◯がない、ゆえに自分の人生は不十分である」という思い込みは、「外」にある何かの欠乏によるものではなく「内」にその根本的な原因がある。
最高の人生。成功。「◯◯であるべき」という自分。私たちは、無意識のうちに「人生とはかくあるべし」という思い込みを抱いており、その思い込みに基づいて外側にある物事とそれらの価値を紐付ける。
「学歴がある自分は素晴らしい(学歴がない自分は素晴らしくない)」
「年収◯◯◯◯万円以上の自分の人生は成功である(年収◯◯◯◯万円以上の年収がない自分の人生は失敗である)」
「素晴らしいパートナーがいる自分の人生は幸せである(パートナーがいない自分の人生は不幸である)」
「◯◯であるべき」という無意識の思い込みと結びついた価値観によって、私たちは幸せであると感じ、そして不幸であると感じる。そしてそれらを持っていないか持っていないか(実現しているか実現していないか)によって、自分の人生をジャッジする。
「◯◯であるべき」と違ったとしても
欲に駆られてもいい。人生に多くを望んでもいい。最高の人生を思い描いてもいい。だが、忘れてはいけないことがある。それは、望みが叶っていなくても、最高の人生が今そこになかったとしても、自分の人生を否定する必要はないということである。
人生の現実とはいわば「こうなるしかなかった今」である。理想とは違う現実が今そこにあることを見つめつつも、それでも今自分が持っているもの、与えられているものに改めて意識を向ける。それが足元を見つめるということであり、自分の人生を大切にするということである。
その現実はたしかに「◯◯であるべき」人生とは違うかもしれない。だがそれは本当に問題なのだろうか?「◯◯であるべき」とは違う人生は失敗なのだろうか?「◯◯がない、だから自分の人生は不十分である」という結論は正しいのだろうか?
否、そんなことはない。「私」はここにあり、その背後に「私」の人生がある。それが「◯◯であるべき」と違ったとしてもそれでいい。「今ここ」を生きていくことそれ自体が重要であり、「今ここ」の積み重ねこそが人生を織りなすのである。
最後に
「三十にして立ち、四十にして惑わず」という有名な言葉がある。
誰もが10代20代の頃、過大に自分を評価し、そして期待するがゆえに自分を見失う。そして、等身大の自分に気づき始める30代40代となり、等身大の自分を受け入れるがゆえに迷いは去る。だからこそやがて「五十にして天命を知る」ことができる。
自分は自分で人は人。自分という現実は理想や願望で描いた形とは違うかもしれない。だがそれの何が問題なのだろうか。思い通りになっていない人生、自分の期待とは違う人生は失敗なのだろうか。
良くも悪くもそこにいる自分、そこにある自分の人生。それらを受け入れたときに心から理解できるのだろう。「私の人生はこれでいいのだ」と。そしてこの境地こそがきっと、人生の安寧なのだ。
出典
『アンナ・カレーニナ(下)』