無上の喜びを追求したことのない人間。世間的には成功を収めるかもしれないが、まぁ考えてごらんなさい。なんという人生でしょう?自分のやりたいことを一度もやれない人生に、いったいどんな値打ちがあるでしょう。
ジョーゼフ・キャンベル
目的を達成するために、人は様々なことを我慢し、犠牲にする。
いい大学に入るため、遊びを我慢し勉強漬けになること。会社で出世するため、社内政治に熱を入れ、イヤな奴と上手くやる。当然土日も犠牲にする。自分を追い立て馬車馬のように働く。それは本当に幸せなのか?
この記事では、その根本的な疑問について、一つの見方を提示したい。
我慢の先に手に入るもの
したいことを我慢し、目標を達成するために粉骨砕身、必死に頑張ることで、確かに人は成功する可能性がある。
いい大学に入れば、いい会社に入れば、人より高い収入を得れば、周りは一方的に「この人はすごい」と持ち上げてくれる。物質的にはいい服を着て、いいクルマに乗り、いい家に住み、世間の評判も得ることができる。
何より、社会人として「社会に適応した人生」を送ることができる。しかし、それが本当に幸せなことなのか。実際には分からない。
学歴があり職歴も十分。家も車も欲しいもの、高級なものは持っている。だが周囲の目は、予想以上にうつろう。そして重要なのは、そこは「持っているもの」を比較する世界である。「自分以上に持っている人」が確実に現れる。
レールが敷かれた成功を目指し、自分の心よりも「みんながいい」と思うことを重視した先に待ち受けるのは自己喪失である。自分ではない、誰かが敷いたレールを進んでも、常に空虚さがつきまとう。
死を迎えた人が一番後悔することが、「自分のしたいことをしなかったこと」であるという。いくら社会から高い評価を得ても、富や名誉を得ても、人は幸せにはなれないようだ。
喜びを犠牲にする代償
自分のしたいことをせず、我慢をして社会的に評価されることを追い求めればある枠組みにおいての成功はできるかもしれない。だがその代償は大きい。一度きりの人生を、後悔が残るものにしてしまう。
それは物質的に豊かになったとか、社会的に成功できたとか、そんなこと以上に、自分自身の魂にとって大きな影響を及ぼす。
せっかくこの世でできること、したいことがたくさんあるにも関わらず、俗世の成功ばかりを追いかけた結果、何が幸せを運んでくれるのか。何が豊かな気持ちにさせてくれるのか。大切なことを見失ったまま、虚飾の栄光に自分を見失う。
そしてやがて押し寄せるのは後悔である。「自分は本当に、自分らしい人生を生きたのか?」という強烈な後悔と、寂寞感である。
最後に
この世に生まれて好きなことができる。それはただ好きなことができるだけでなく、自分の魂の成長にとっても大切なことである。
「好き」という喜びを追いかけていくことによって、自分が何者なのか。そして、本当にこの世で何を成すべきなのかという、本質的なナゾが解ける。
一方、世間体に引きずられて「○○が成功の証である」というものばかりを追いかけた結果、それを手に入れても不幸になってしまうのはあまりに虚しい。誰がどう言うかなど関係ない。大切なのは、「自分がどう感じるか?」である。
「今この世界にいる自分」としての人生は一度きりである。そして自分が自分であるということは、自分でしか経験できないことがあることを意味する。
だからこそ大切なのは心の声である。自分が何をしたいのか。どうありたいのか。そうした本音は、誰かが敷いた成功のレールや豊かさの証明よりもずっとずっと、価値があるものなのである。
出典
『神話の力』