心を開き知らないことを知ろうとする。それは自分自身の可能性、そして人生を救う

学ぶ女性

自分たちの生きているこの世界を知ろうとしなくてなにができるというんですか。いくら勉強したって、生きている限りわからないことは一杯あります。

世の中には、なんでもわかったような顔をした大人が一杯いますが、あんなものは嘘っぱちです。いい大学に入ろうが、いい会社に入ろうが、いくつになっても勉強しようと思えばいくらでもできるんです。

好奇心を失った瞬間、人間は死んだも同然です。

阿久津真矢

「知っている」か「知っていない」はとても大切な問題である。知るべきことを知っていないとき、私たちは物事の正確な現状を知ることはできない。そのため自分自身の思い込みだけでなく、流されてくる情報に思考によって行動が影響される。

だが、知るべきことを知ることによって私たちは現状を適切に把握することができるだけでなく、「現状をより良くするために何をどうすればいいか?」へと向かう手がかりを手に入れることができる。

「生きている限りわからないこと」は確かにある。たくさんある。そこで「なんでもわかったような顔をした大人」になるのではなく、「わからないことがある」という前提に立ち心を開いて学び始める。学び続ける。

それはまず、自分自身のためでいい。それによって新しい日常と可能性、そして世界が、広がっていく。

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はじめに

わからないことをわからないと認識することは大切である。だがそれと同時に、自分がわからないことや知らないことを安易にデタラメだとか、おかしなウソだとか、切り捨てることは結果として自分自身の損となる。

自ら学びと情報を求め、起こっていることに対して柔軟な姿勢を持ち続けている人はすでに気づき理解していることなので、ここで改めて述べる必要がないことかもしれない。

だが近年、特に顕著な傾向だが、「◯◯はウソです」「△△はでたらめです」などとラベルを付けられてきた事柄が、「実は本当のことでした」と明らかになっている事例が明らかに多すぎることに、あなたは驚愕しているかもしれない。

そして「◯◯することは正解です」「△△することは良いことです」などと言われてきたことが実は、「それはやめたほうがいいです」という事柄であったという事例に人々が気づきつつあるという、新しい胎動を感じ始めているかもしれない。

ここで私たちが認識すべきことはシンプルだがとても大切なことである。世の中にはわからない事が多い。何が正しいかを見抜くことはかんたんではない。だからこそ「知ろう」とする主体的な行動を起こすことはとても大切である。

それと同時に、何が正しくて何が間違っているか。安易に自分自身でその判断を下さないことである。それは「いくら勉強したって、生きている限りわからないことは一杯あります」という言葉の通りである。

まずは「保留」する

情報を手に入れる手段として、ネットはとても有効な媒体である。だが、ネットの情報は文字通りの玉石混交である。特定の発信者の情報のみをフォローして、「これこそが真実である」と鵜呑みにすることは、むしろ真実から遠ざかる可能性がある。

特定の発信者の情報のみをフォローするのではなく、例えば日本の情報ならAさんBさんCさん、海外の情報ならDさんEさんFさんなど、必ず複数の情報を確認する。

そのさい大手メディアとは違う主張をしている発信者や、普段私たちが耳にしてない情報を発信している人から情報を得ることが望ましい。すなわち、情報を得る最初の段階で大切なことは、私たち自身が心をオープンにしておくことなのである。

私たちは発信されている情報を比較し、その後の経過をフォローしていくことで、「誰が本当のことを言っているのか?」を知る材料にすることができる。

例えば非常に興味深い傾向なのだが、いわゆる賛否が分かれる情報に関しては、「あの人の情報はデマです」と言われ続きた発信者が報じてきた情報が結果として正しく、そうした発信者に対して否定的な立場の情報発信者の方が誤った情報を流していた事例が目立つ。

結果は真実を伝える。複数の発信者をフォローすることで、誰が誠実に情報を伝えているか。誰が恣意的に情報を伝えているか。私たちは真実を知るための、嗅覚を養うことができるのである。

エコーチェンバーそれ自体は悪くない。悪いのは

「エコーチェンバー現象」という言葉がある。特定の枠組みのなかで同じような価値観のなかに過ごす人々を揶揄する、どちらかというとポジティブではない意味で使われている印象を受ける言葉である。

ここで指摘しておかなければいけないのは、どのような価値観のなかに私たちが属するかが重要であって現象それ自体が問題の本質ではない、ということである。

先に述べたように、近年の傾向として顕著だが、どちらかというと「あなたの話はおかしいです。デマを撒き散らすのはやめてください」とネガティブな反応を受けていた少数の発信者の方がむしろ「正しいことを伝えていた」という事例が明らかに散見された。

そして、一部の「少数派」や「先行者」が、「そんな話は信用に値しない」と頭ごなしに切り捨てるのではなく、「可能性の一つとして知っておこう」と心を柔軟に開いた結果、「そのエコーチェンバーに属した人々」だけが正確に事実に近づくことができた。

だからこそ重要なのはどの集団に属するのか、という本質論である。正しい情報を求めたらそれに適したフィードバックが戻って来る集団に属することができることは、何も悪いことではないだろう。

物事には明らかに、「その考えは不適切です」という考えがあると同時に、「その考えは適切です」という考えもある。だからこそ問題は、どこに属するのかなのである。

だからこそ、学ぶ。

とはいえ私たち自身がどこに属することが適切なのか。その判断を安易にすることはかんたんではない。確かに世の中には、様々な情報が溢れすぎている。それぞれの背景を持つ人々が、多種多様な発信をしている。

そして不適切な集団のなかに属してしまった場合、間違った価値観や情報のもとで、人生の行路それ自体を誤まる可能性は現実としてある。

だが情報の受け取り手である私たち一般人だからこそできることがある。誰が、何を、発信していたのかを比較できるということである。比較によって信頼すべきもの、フォローすべきものをこれ以上ないほど明確に、理解することができる。

だからこそ私たち一般人は、勉強すること、「自分が知らないこと」を頭から否定するのではなく、まず知ろうとする試みが大切なのである。

自分と違う意見を否定することはとてもかんたんである。そのなかには確かに、否定されてしかるべき内容もあるだろう。だが否定するのではなく一旦「そういった意見もある」と「保留」してみることも大切ではないだろうか。

「保留」したものがOKであるのかそうでないのか。情報や意見を鵜呑みにせず、それはのちのち、私たちが様々な情報を取り入れる。何が信頼できて信頼できないのかを丁寧にフォローしていく。そして結果を比較する。

こうすることで私たちは、「信頼に値する情報を発信している確率が高い発信者」はおのずと、知ることができるのだから。

最後に

イタリアの天文学者、ガリレオ・ガリレイは「それでも地球は回っている」と主張し、教会より異端審問を受け有罪となり、生きている間にその名誉が回復されることはなかった。だが後世に生きる私たちは、誰が本当のことを言っていたのかを知っている。

ときに、本当のことを知ることはもしかしたら勇気がいることかもしれない。それまで信じるべきものだと思い込んでいたものがそうでなかったことを認めることは恐ろしいことかもしれない。

それでもなお、正しいことは正しいし、正しくないことは正しくない。ウソは何回言ったところでウソである。事実は事実として、やがて人々に認知されていく。だからこそ知ろうとすることは大切である。そのために私たちが日々できることが確かに、ある。

「生きている限りわからないこと」はたくさんある。そしてわからないことをわからないままで済ますことのではなく、一つでも何かを知ろうとする。そこに生きる価値、そして意味があると、信じる。

出典

『女王の教室』