天才の構成要素は、ちょっとした才能と大いなる努力、そして、群れの価値観に流されず、「自分という絶対ブランド」を信じ続ける”自分力”なのかもしれない。才能の比重は以外に低いのだ。
山田玲司
正直なところ、自分が本当に何者なのか、どんなことができて、どんな才能があるか、そして何が好きでどんな人生を行きたいのか、100%完全に知りうるのは案外難しい。
あるときはこっちがいいと思ったりするし、またあるときはあっちのほうがいいと思ったりする。つまり、時と場合によって、自分はいともかんたんに変わってしまう。
だからもしあなたが自分自身についてあれこれ悩んでいるようであれば、一つを提案をしたい。それは、「自分とはこういう人間である!」という自分探しを一切やめることである。
はじめに
あなたがあなたであることにこだわらなくてもいい。つまり、あれこれ意見が変わるのもあなた。「自分がない」ように思えるのもあなた。
別に、それに何の問題があるのか?自分があるということは言ってみれば、固定化された自己像があるということだ。
それは良い面もあるのも確かだが、逆に言うと柔軟性に欠けるということでもある。つまり、「自分はこうあるべきだ」という強いイメージにしばられてしまうのだ。
だからこそおすすめしたいのは逆張り。みんなが自分自身を必死で探そうとしている今の時代だからこそ「逆張り」が肝心だ。
今すぐ自分は見つからなくてもいい
別に自分なんて探さなくてもいい。あなたはあなたが自然に思った通り、感じたとおり、いつでもどこでも「変節」できる人間であっていい。
そうすれば、人生で何が起こって対処できる。それに、いろんな変化を楽しめて、案外人生飽きることがないかもしれない。
もしあなたが自分探しを続けているなら、そして「これが自分だ!」というあなた自身が見つからなければ、別にそれで問題ない。ただ、あなたはあなたが思ったとおりに、感じたとおりに、生きればいい。その先に、あなたの道が、用意されている。
「自分が知らない自分」と出会う
「私はこれができてあれができない」「私はこれをしたいけどあれをしたくない」
そんな自分の心の声は真実の声かもしれない。だが、そこで安易にそれを変更不能の絶対的な真実として決めてしまう必要はない。
人は確かにかんたんには変わらないが、何かのきっかけで、「私はこんなことができた!」「私はこのような人だったのか!」という予想外の自分と出会うこともある。そんな人物と出会う原因。それは環境である。
所属する場所。付き合う人や関わる人。いろんな環境によって自分は新たな自分としての顔を出し始める。自分という存在は意外性があるのである。
最後に
自分をあえて探す必要はない。それは探すのではなく気づくものである。いろんな機会、いろんな環境で、自然と気づくものである。
そしてその人物は、時と状況によって、いろんな顔を見せる。だから「私は◯◯である」というイメージを持つのは構わないが、それを絶対の自分と決めつけるのもまた、もったいない。
時と場合によって自分という存在はいともかんたんに変わってしまう。そんな変節漢でも大丈夫。人はそもそも、変わりうる存在なのだから。
出典
『非属の才能』