童話の世界だけでなく、現実の人生も同じだよ!人を喜ばせようとしたら花が咲き、自分の利益のためにしたら、災いが起こる。
竹田和平(『人生とお金の道を極めた 竹田和平の人生訓』より)
世の中は因果応報である。
きれいごとに聞こえるかもしれないが、良いことをしていれば良いことが起こり、悪いことをしていれば悪いことが起こる。
たとえ「なぜ悪人が世の中にのさばっているのか?」という現実を目の当たりにしても心配はいらない。彼らの「旬」は非常に短い。やがて彼らは、自ら蒔いた悪行という名の種を、自ら刈り取ることになる。
確かに、正義がいつも勝つとは限らない。しかし結局のところ、「この世に悪が栄えた試しはなし」。時間差はあっても、必ず帳尻が合うようになっている。
最後の最後に「帳尻」は合う!
正しいことがつねに通るとは限らない。いやむしろ、現実には「なぜ、そのような行いがまかり通るのか?」と疑問を抱かざるを得ないことが数多く存在する。
そして、その状況をすぐに正すことができない場合も少なくない。だが、それでもなお大切なのは、自分が自分としてできることをやることである。
自分のためだけでなく、誰かのためにやるべきことをやればいい。そうすれば長い目で見て因果応報。自分が蒔いた種を自ら刈り取ることになる。良い種を蒔いておけば、良いことがやって来るのだ。
その「行動」の「効果」を短期的に確認することはできない。しかし、3年、5年、10年、ときに20年から30年以上。長い目で見れば、自分がしてきたことは必ずどこかで帳尻が合う。
だからこそ、結果を誰のせいにもできない。自分が「蒔いた種」を刈り取るのである。そうなるように、なっている。
「自分の人生に責任を持つ」ということ
人生における最後のとき、問われるのは「まわりがどうしたか」ではなく、「自分がどうしたか」である。自分が「してきたこと」は、遅かれ早かれ必ず自分に返ってくる。
だからこそ、今、自分が人としてどう振る舞い、何をしてまわりに何を与えるか。これこそがまさに、自分の人生に責任を持つということである。
最後に「めでたしめでたし」を迎えたければ、「今だけ」「自分だけ」で日々を生きることは、賢い選択肢ではない。確かに「今だけ」は楽しいかもしれない。しかしそれは、長い人生における一瞬のシーンにすぎない。
人生の一瞬を楽しむのではなく、「私は人生全体を、めでたしめでたしにしたいです」と考えるなら、人として幸せな人生を望むなら、自分のことだけでなく、まわりの人のことも考え、日々幸せの種を蒔けばいい。
これは綺麗事でも、偽善でも何でもない。なぜなら、自分が蒔いた種は自分に返ってくる。それが世の中の仕組みだからである。
最後に
人は人、自分は自分。
たとえ他人の目に余る悪行がそこにあったとしても、彼らはやがて自滅する運命にある。問題は、自分自身がどう生きるか。ただ、それだけである。
私たちは、因果応報の世界に生きている。良い意味でも、悪い意味でも、自分がしたことは、いずれ自分に返ってくる。
なぜか親切にされてしまう人には、親切にされるだけの理由がある。なぜか運に恵まれる人にも、運に恵まれるだけの原因がある。私たちはその「結果」だけを見るのではなく、「原因」を知ることが大切である。
だからこそ、問うべき問いはひとつ。「自分はどうするのか」。それだけである。あなたは今、どんな種を蒔くだろうか?
追記
先日、一冊の本を読んだ。それは『史記』(角川ソフィア文庫)という、今から二千年ほど前に書かれた古い歴史書である。著者は、当時の権力者の逆鱗に触れ、男性としてはこれ以上ないほど屈辱的な刑罰を受けた。
それでも彼は、自らの人生の意義として『史記』という歴史書をこの世に残した。そこには、一つの考え方が力強く貫かれている。それが、「因果応報」である。
善人が、その品性や人格にふさわしい人生を送れるとは限らない。そうした現実は、確かにある。だが同時に、悪人の行いもまた、時間差をもって再現される。この書は、その両面の現実が確かに存在していることを、私たちに教えてくれる。