自分の居場所は「生き方」を探す中で見つかる。

咲き誇る花と女性

いかに管理された社会、出来上がった社会であっても、みずから出かけていって自分の居場所を見つけてほしい。そこには必ず、自分に適した穴ぼこがある。

そういうニッチを発見し、あるいは創りだしていくことが、世の中を多様にし、面白くすることになるはずです。

渡辺京二(『無名の人生』より)

自分の生き方を見つけることは、自分の居場所を見つけることと同じだ。

世の中には、「このように生きるのが一般的だ」という「テンプレート」のようなものが確かに存在する。しかし、誰もがそのようなテンプレートを受け入れられるわけではない。

鳥に「地に足を付けて生きなさい」と言っても、鳥はやはり空を飛ぶだろう。桜に「春以外にも秋にも咲いてください」と言っても、桜は春に咲き、そして散る。

人にはそれぞれの天賦の才がある。その天賦の才に応じた生き方を見つけることこそが自然な生き方であり、無理のない生き方だ。

自分の天賦の才をないがしろにして、別の誰かになろうとすることはできるかもしれない。だが最終的には、自分は自分であるということに気づく。そして、それを尊重することこそが幸せなのだと知るだろう。

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はじめに

自分らしい生き方。それは誰とも比較できない、唯一無二のものだ。

そもそも、人それぞれの人生の目的は異なる。「Aさんが〇〇だから私も〇〇のように生きよう」という考え方は参考にできても、Aさんと同じように生きることはできない。

そうではなく、自分自身の素質はどうなのか、体力はどうなのか、好きなことは何なのか、無理なことは何なのか、といった様々な条件を、自分自身が誰よりも深く理解しておくことが大切だ。

その様々な条件に良いとか悪いといった評価を下すのではなく、「では、こうした自分自身の条件を踏まえ、無理なく自然に生きていくにはどうすればいいだろうか?」と真剣に考える。そのとき、

「最低でも〇〇大学の学歴が必要だ」

「△△歳なら年収〇〇〇万円ないと恥ずかしい」

「人に自慢できる仕事、会社がいい」

といった見栄や体裁を持つことは個人の自由だが、それは自分のための「ニッチ」、つまり自分にとって居心地の良い場所、そして生き方を見出す上では何の役にも立たない。

なぜなら「他人視点」の人生には、常に「比較」がつきまとうからだ。自分の人生を誰かと比較し続けている限り、そこには「これでいいのだろうか?」という迷いが常に付きまとうだろう。

「自分らしく生きること」はわがままというよりもむしろ

自分らしく生きることは、一見すると自分勝手な主張のように聞こえるかもしれない。しかし、自分らしく生きることは、自分を偽って誰かの真似をして生きるよりも、自分自身を幸せにするだけでなく、結果として世の中にも貢献できる。

例えば、先に述べたように、人には抗えない様々な条件、すなわち先天的な向き不向きというものが存在する。

その上で、私たちは与えられた環境や仕事に自分を適応させる努力をすることは可能であり、社会で生きていく上では、そうした努力が求められる。その努力は重要であり、人生のある時期には、必要なことを学ぶために我慢することも大切だ。

しかし、それはあくまで程度の問題である。自分を環境に適応させる努力を重ねても、「これはどうしても無理だ」「続けることはできない」という状況は、確かに存在する。それは現実なのだ。

だからこそ、「向いていないことは向いていないし、できないことはできない」と割り切ることは、決して恥ずかしいことではなく、単なる「逃げ」でもない。むしろ、現実社会に適応するための積極的な行動と言える。

自分らしさとは、「自分にできないこと」や「向いていないこと」を切り捨てた結果として残るものだ。そこにこそ、まさに自分自身のニッチ、「自分ができること」や「向いていること」が見つかる、「自分に適した居場所」があるからだ。

大切なのは考え方。「◯◯でしか生きられない」のではなく

「〇〇でしか生きていけない」という社会よりも、「〇〇で生きていくこともできるけれど、△△でも生きていける」という選択肢の広い社会の方が素晴らしい。

なぜなら、それは人々が画一的な価値観の中で自分の生き方を探すのではなく、自分らしさを否定せずに、むしろそれを個性として受け入れた上で、その個性を活かせる場所を探せる社会だと考えるからだ。

個性は生まれながらに備わっているものだからこそ、無理な努力をしなくても人並み以上の力を発揮することができる。

自分ができないことや向いていないことで誰かの役に立つことは非常に困難だが、自分ができること、向いていることなら話は別だ。だからこそ、それは真の意味で世の中に貢献することにつながる。

結局のところ、私たちが本当に誰かの役に立つ生き方を選ぶのであれば、それは決して自己卑下や自己犠牲に基づいた生き方ではない。むしろ自分自身を尊重し、自分を大切にする生き方をすることによって、それは可能になるのだ。

最後に

皆が特定の指示や方策のもとで同じ方向を向き、同じようにしなければならない。それを全体主義と言う。

全体主義は個人の価値観や多様性を認めない。そして、

「〇〇と言ってはいけない」

「△△と感じてはいけない(△△と感じることは悪いことだ)」

など、人々の考え方、感じ方、そして在り方にまで指示を出す。その結果生まれるのは、何もかもが均一化され、徹底的にコントロールされた、息苦しい人工的な世界だ。

それぞれの国が長年育んできた歴史や伝統は消し去られ、世界は単一の価値観のもと、どこへ行っても同じような場所へと変貌する。そして私たちは、自分自身を活かすニッチを探すことさえ許されず、「決められた特定の生き方」を強要される。

全てが一色に染められた世界よりも、それぞれの国が独自の個性や在り方、歴史や価値観を大切にし、それらを否定するのではなく、互いに認め合い、尊重する。それぞれの独自性を大切にする人々が、それぞれの場所で共存する。

それこそが真の多様性であり、豊かで、そして自由な世界だと私は確信している。だからこそ私たちは、それぞれの人生において「自分に適した居場所」を探し求める価値がある。私たちの多様な在り方こそが、この世界を素晴らしい場所にするのだから。

自分の「居場所」探しの学びを深めたい方へ
人生には「呼ばれる場所」がある。|人生の気づき.com【note版】
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