「当たり前」はいつでも失われる可能性がある。この自覚を持つことによって

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石澤幸弘

健康。仕事。お金。人間関係。

今自分が持っているものは当然の権利の如く自分に与えられているものではない。この自覚を持つ人こそが幸福な人生を送る人である。

それは何かの縁があって今の自分に用意されている。そしてそれは縁が切れれば突然自分のもとから跡形もなく去っていくことを知っている。だからこそ「今それがあることは当たり前ではない」ということを自覚し感謝したい。

大切なものを失って初めて気づく前に。

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はじめに

逆説的だが、物事の本当の価値はそれを失った瞬間に最も強く認識することができる。

それは今まで自分の人生において当然のように存在していた。それができるのは当たり前の権利であると誤認していた。だが実際は、それがあるのは当たり前ではなく、それがあること自体が、とてもありがたいことだったことに気づく。

この意味で大切なものを「大切である」と認識せず「それがあることは当たり前である」と誤認する経験は早いほうがいい。「それがあることは当たり前ではない」ことに気づくのが早ければ早いほど、軌道修正は容易になる。

それは本当に当たり前なのか?

当たり前という意識は自分の自我を肥大化させ、謙虚さを失わせるだけでなく、物事のありがたみを認識する能力を著しく衰えさせる。

体が動くのは当たり前。家族がいるのは当たり前。仕事があるのは当たり前。電車が動くのは当たり前。当たり前を当然の権利であるが如く錯覚し、意識は宇宙のように無限に肥大化していく。その結末に待ち受けるのは大いなる悲劇である。

なぜならそこには感謝がない。当たり前を当たり前としている他者、自分以外の物事への感謝が完全に欠落しているからである。そしてそれは、「傲慢」というダークサイドへと私たちを誘う。

今そこにあるもののありがたさに気づく

実際のところ、この世界において当たり前は何ひとつない。

「◯◯があるのは当然である」「◯◯が私に△△してくれるのは当然である」と考えていることはある日突然失われる可能性がある。

それまで当然のように思えていたものを失ったとき初めて、「◯◯があるのは当然ではなかった」「◯◯が私に△△してくれるのは当然ではなかった」ということに気づくのは遅すぎる。

そうならないために、まずそれは当たり前ではないこと。誰かがそれをしてくれていることに気づきたい。今そこにあるもののありがたさに気づく。この自覚こそが「幸福」を感じる感性を育てるのである。

最後に

個人的な話で恐縮だが、先日突然左目が腫れ上がって目が半分しか開けず、おまけに盆休み期間で病院も開いておらずただ寝るしかないという時間を過ごした。

幸い一週間ほどでで目は元通りになったが、改めて「健康であること」の大切さを思い知らされた。

目が腫れ上がる症状が現れる前日の夜まで、左目が腫れ上がる予兆は全くなかった。しかし朝起きたとき突如それは顕現した。変化が起こるときそれは本当に突然起こること、何かが起こるときは何の前触れもなく異変が起こりうることを実感した。

だからこそ健康を始めとするあらゆる事柄。今自分にあるものに感謝し大切にしたいと、改めて感じた。

出典

『シルバー川柳3』