金や死を恐れ、逃げ回るようにして生きていると、結局は金を無駄にしてしまうことになる。何年も苦労して稼いだ金を使わずに死んでしまうことにもなりかねない。つまり、恐怖の奴隷として何年も働き続けなければならなくなる。
ビル・パーキンス
お金。それは現実である。
お金を軽視するのであれば現実の人生は制限だらけになる。そして生存のための日々に追われ、やがて人生そのものを見失う。その一方でお金に本来の役割以上の何かを期待するのであれば、その行く末もまたハッピーエンドとは程遠い。
すなわちお金とどう向き合うか?それは「この人生をどのように生きるか?」という問いに等しい重要な問題である。
だからこそもし人生に本当の安心があるとするならば、それはお金によってもたらされるものではなく、もっと別のところにその答えがあるように思えてならない。
はじめに
日々の生活というお金の現実に追われているとき、お金の問題と向き合わずして人生の独立はありえない。そこで私たちは「もっと稼ぐ」方法や、お金を「効率的に増やす」方法に関心を持ち、自分自身が持つお金の数を人生を安全性を担保する力として考える。
だがお金それ自体に人生のすべての安全や夢、豊かさを保証する、万能なる力を持ってはいない。お金は手段であり、手段は目的があってこそ意味を成すからである。お金それ自体は、交換によって何かを果たすための手段に過ぎない。
現代社会においてお金は私たちは日々の生計を立て、人生で経験すべきことを経験するための手段である。
すなわちお金を持つことによって私たちは生活することができる。モノを買うことができる。サービスを利用することができる。老後の生活を心配せずに暮らすことができる。それ以上でもそれ以下でもないはずである。
だが現代社会において「お金は手段である」という本質は、とかく忘れられがちである。
なぜお金を貯めても安心できないのか?
「お金とは手段である」
それを忘れているときに起こる典型的な症状がある。それはお金への尽きぬ不安である。
それは最初は小さなものである。「◯◯◯万貯めれば少しは安心できるだろう」お金があるということに安心を求めお金を貯め始めたものの、いざ「◯◯◯万円貯めた」結果、「まだ十分でない」という、漠然とした不安に襲われる。
このお金への漠然とした不安感は、
「月収◯◯万円の収入は少なすぎる」
「XXは高すぎだ」
「△△にお金を使うのは無駄だ」
といった思考に通じ、その影響はまず月々の収入や日々支払うお金といった部分に顔を出し始める。それと合わせてお金を失うこと、仕事や生活を失うこと、お金を原因として恐れが人生を支配していく。
この状態こそがお金に人生を支配されている状態である。それはいわば、手段と目的が入れ替わってしまった状態と言える。その結果、「もっとお金があれば」という、泥沼にはまりだす。これこそが永遠に癒えぬ渇きの始まりである。
まず目的があり、次に手段がある。
お金とは交換券である。「◯◯する」ための手段を提供してくれる、交換券である。ゆえにお金それ自体はある意味で中立な存在である。そしてそれは、お金それ自体は本当の意味で私たちに安心や安全をもたらしてはくれない。
「お金さえあれば安心である」
「お金は使わず増やすのが良い」
と手段と目的を履き違えることによってむしろ、現実は安全とは真逆の方向へと向かう可能性がある。
今、お金が生存のために必要であればそれに使えばいい。生きることは何よりも優先される現実である。だがそれと同時に、自分自身がどのような生き方を選択すれば最良なのかを考えてみる。
その上で、どのようにお金を使えばいいのか?そもそも、今持っているお金をどのように使えば今の自分にとって最善の生活が可能なのか?人生において実現されるべき安心、そして保証は、こうした問いから始まるように思える。
最後に
お金は現実である。ゆえにお金を軽視する考え方は個人的に賛同しかねる。繰り返しになるが、お金は人生という現実において、生存を可能にするだけでなく人生で経験すべきことを経験するための機会を手に入れる手段だからである。
だがお金はそれ自体は万能の存在ではない。お金の有無は人間性とは関係ない。ゆえにお金を物事の真理や価値を決定するものではない。お金はあくまで手段である。手段は目的があってこそである。
お金は普段の生活を成り立たせるための手段である。学びや旅行、仕事、するべきことをするために必要な手段である。手段をどのように活用するかは自分次第である。ゆえにお金それ自体は人生の安心は保証しない。
本当の意味で自分の人生の安心を保証できるのはあくまで、自分自身なのだから。
出典
『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』