人間はおたがいに何かを教え合うために集まる。問題は、自分が何を教えているのかわからない場合が多いことだ。
金持ち父さん(『金持ち父さんの投資ガイド[入門編]』より)
人はなぜ、出会うのか?誰かと何かを織りなし、人生の痕跡を残すのは、いったいなぜなのだろうか。それに対して、100%完璧で正しい答えがあるとは思わない。
けれど、私はひとつの仮説を持っている。「人はそれぞれ、何かに気づき、そして学ぶために、出会っているのではないか?」と。
人生の中で私たちは、さまざまな人と出会う。そこには、いい人もいれば、そうでない人もいる。あたたかな記憶として心に残る人もいれば、長く尾を引くトラウマとして刻まれる人もいる。
けれど、そのどれであっても、そこにはきっと「意味」がある。そう信じてみることで、私たちは新たな気づきを得ることができる。そして、出会いから学びを見つけることができるのだと思うのだ。
はじめに
もし、私たちが「おたがいに何かを教え合うために集まる」のだとしたら、そこにはきっと出会いの意味がある。
私たちは、人間関係についてついこう考えてしまう。
「◯◯さんはいい人だから、仲良くできる」
「△△さんはちょっと合わないから、距離を置こう」
そうした判断はときに必要だし、状況によっては適切な選択でもある。
けれど、ここで私が話したいのはそうした選べる関係ではない。もっと“必然的に”集まってしまうような人間関係である。
たとえば、家族であったり、職場の同僚。これらの関係の共通点はひとつ。「自分で選んだわけではない」ということだ。
その条件が「逆境」に見えたとしても
「家族ガチャ」
これは、主に若い世代のあいだで使われている言葉だ。
その言葉が示すように、私たちは「どんな家庭に生まれるか」を自分で選ぶことはできない。そして、その家庭環境によって人生のスタートライン、さらには大人になるまでの道のりは、劇的に異なってしまう。
これは、きれいごとでは済まされない現実だ。別の言い方をするなら、それは「生まれつき最初から付与されている条件」と言えるかもしれない。
子どもは親を選べない。ゆえに、どんなに本人の意志とは関係なくとも、親という存在からの影響を、良くも悪くも受けずにはいられない。
この現実をネガティブに捉えるのは、たやすい。だが、同時にこんなふうにも考えられないだろうか?
「この家庭に育ったからこそ、私にしか見えない世界がある。それは、私が“私の人生”を生きるために与えられた、大切な通過点だったのだ」
私たちが自分自身に目覚めるきっかけ
いや、正確に言えば逆境だからこそ、その人が本来持っている力が引き出されるのだ。
それは、順境の中では決して現れない力である。
誰にも理解されないこと。
理不尽な扱いを受けること。
疎外されること。
そうした人間関係の逆境は、否応なく私たちの意識を「自分自身」へと向かわせる。
そして私たちは、そこから気づき始める。
自分は、いったい何者なのか。
自分には、何ができるのか。
そして、自分はどこへ向かおうとしているのか。
それは、人から与えられる“刺激”であり、人生における一つの契機でもある。
ここで大切なのは、「その人間関係が良いか悪いか」ではない。その人と出会い、関わった。そして「その結果、私は・・・」と続いていく、その気づきにこそ意味がある。
それは、いわば「気づく力」だ。その出会いによって心に宿された、まだ言葉にならない“何か”に気づこうとする、目覚めの力なのだ。
最後に
私たちは、人との出会いを通して、自分自身に気づき始める。
自分で選ぶことができない出会い。
逆境的な人間関係。
人生によって、自分の意思とは無関係に与えられたように思える関係の中で、私たちは気づき、学び、そして目覚めることができる。
そして、その出会いは私たちだけに意味をもたらすのではない。出会いの相手もまた、私たちとの関わりの中で、何かに気づいている。だからこそ、その関係は“一対”なのだ。
そう。私たちは「おたがいに何かを教え合うために集まる」。だからこそ出会うのだ。
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