もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。
嫉妬こそベーコンがいったように悪魔に最もふさわしい属性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向かって働くのが一般であるから。
三木清
世の中には性悪説と性善説、2つの見方がある。
このうち、正しいか間違っているかを別にして、どちらを信じれば実用的なのかを考えればやはり、性悪説を信じるほうが、世の中を生きていく上では、いろいろ都合が良いように思える。
なぜなら、特に特別な人生を送らなくても、ただ普通に生きているだけで、日々関わる人々のなかから、必ずしも「善」をは言えない何かを、容易に見出すことができるからである。
それは私の中にもあなたの中にも。きちんと見ようとすれば、それを確実に見ることができる。
悪はたしかに存在する
たとえば、あなたは生まれて一度も、誰かによって不幸にされなかっただろうか?そして、誰かを憎まなかったことはあるだろうか?誰かの不幸を願わなかったことはないだろうか?
実際にあるものを否定してないようにするのはやはり、非合理的である。やはりどう否定しようが、そこにあるものはあるのだ。
それを考えれば人には基本的に、悪としか言いようがないものの存在が否認し難く存在し、個人の人間性や努力によって、善たらんと修養しているのである。
つまるところ、我々が生きていくうえでは必ずしも善たり得ない現実がある。
だからこそ大切なのは、人の悪を助長せず、人の善が成長するのを助長する。そう考えて物事を考えた方が、何にしても現実的だし、実用的である。
不都合な現実と向き合う
別に綺麗事を信じるのはそれはそれで構わないが、すべては自己責任。
人の善を信じたいがゆえに両目を閉じて耳を塞いだ結果、目の前の現実を見失い、やがては手ひどくその信仰を裏切られる。それは相当な痛手である。
だから信仰から裏切られないために大切なのは、1にも2にも実際の現実。すなわち、今目の前で起こっている事実を真正面から受け止めて、それがそこに存在していることを、正直に認めることである。
そうすれば気づく。世の中にはたしかに悪としか言いようがないものがある一方で、善と言えるものも、たしかに存在していることに。
最後に
性善説も性悪説も、結果的にどちらも正しい。なぜなら、その両方が世の中に存在しているからである。
この意味で現実対処は最優先。今目の前にあるのは善なのか悪なのか。曇りなき眼で、真っ直ぐ見つめることである。そうすれば必要以上、現実に振り回されることもないだろう。
それは「信じたい」「信じたくない」の問題ではない。「実際の現実はどうなのか?」というシンプルな話である。だから善は善で悪は悪。必要な対応をすることが大切である。
出典
『人生論ノート』