
人生のすべての出来事には意味があり、「必然性」があるから起きている。だから、私たちは人生で何らかの問題に直面したとき、すぐにその「原因」は何か、「解決策」は何かと考えるけれども、より重要なのは、その問題の「意味」と「目的」に考えをめぐらすことである。
諸富祥彦、『あなたのその苦しみには意味がある』より
「過去に、◯◯という出来事があった結果、私の人生は△△になった」
こう考えることを、原因論的見地と言う。
原因があるから結果がある。それは確かに理屈としてはそう思える。だがそこには大きな問題がある。
原因論的見地で人生を捉えることで、私たちに無力感を感じさせ、「原因探し」や「犯人探し」に意識を向けさせ、未来ではなく過去に意識を向けさせてしまう、ということだ。
それは、「(もはや変えることができない)過去の出来事」が「今の私たち」をコントロールすると思い込ませる。
確かに、起こってしまったことを変えることはできない。そして、原因論的見地で人生を見続ける限り、そこに救いは存在しない。
だからこそ重要なのは、冒頭の言葉にもあるように、その問題の「意味」と「目的」に考えをめぐらすことだ。こうした考えを、目的論的見地と言う。
「なぜ起きたか」ではなく「ここからどうするか」を問う
過去に、ある出来事があった。そのとき重要なのは、「何が原因で、その出来事が起こってしまったのか?」を問うのではない。
「その出来事は自分にとってどんな意味がったのか?」
「それをきっかけにして、ここから自分はどう生きるか?」
を問うこと。
これこそが、目的論的見地である。
人生で起こることは起こる。そのとき、自分の力ではどうにもならないこともある。そのとき、原因を探しても、納得できる答えが見つかるどころか、かえって無力感に苛まれてしまうことさえある。
だからこそ原因探しをするのではなく、「何のために、それが起きたのか?」に目を向けること。それが、目的論的見地である。
意味を問い直すことで、心は「未来」へつながる
人生には、いろんなことが起こる。そのときそれを、合理的に説明したり、納得できることもあるが、理不尽なことや、原因がわからないこともたくさんある。
そして重要なのは、もう起こってしまったことを、時間の針を戻して、起こらないようにすることはできない、ということだ。
どれほど原因を探しても、過去が変わらないという事実は変わらない。
「なぜ、こんなことになったのか?」
と、心は過去に囚われ続ける。
だが、
「この出来事が起こった意味は何だろう?」
と見方を変えることで、その出来事は私たちに「これから」のことを考えさせる。それは私たちの心を、過去から未来へと、つないでくれる。
自分の人生を承認するために
悩むことは、生きることの一部である。
そして、いくら人生に万全を期しても、思い通りにならないことや、予想もしなかった出来事によって、「思っていた人生」は、あっけなく変わってしまう。
そこで、「私の人生はこうあるべきだから」という思いに引きずられるのではなく、むしろ逆に、「この出来事によって私は、どんな人生を生きるのか?」を問う。
つまり、過去の出来事を自分を縛り付ける鎖にするのではなく、新しい未来を拓くつるはしに変えていく。
それによって私たちは、運命に縛られ、支配されるのではなく、自分自身の人生を、本当の意味で、「承認」できるようになるのではないだろうか。
最後に
人生で起こることが全て必然なのか。それは正直、わからない。
だが、小さなことから大きなことまで、それが全くの無秩序に起こっているとも、思えないことは確かだ。
思い返せば、「人生万事塞翁が馬」の言葉通り、起こる出来事の意味はそのときはわからなくとも、その後にそれが無意味ではなかったことを知った。
例えそれが、そのときは「悪い」出来事だったとしても、「それがそのとき起こった」意味に思いを馳せることで、前を向くことができた。
止まりたいときは、止まればいい。後ろを向きたいときは、後ろを向いていてもいい。だが、「原因探し」や「犯人探し」をする必要はない。
そのかわり、問うべき問いがある。
「この出来事は、自分にとってどんな意味があるのか?」

