人生を満たすのは、「正しさ」というより「調和」である

調和する2人の女性

正しいことをするだけでは、幸福になるのには不十分です。不幸な正義漢というのも多いですから。

大島淳一、『マーフィー100の成功法則』より

自分なりの価値判断基準を持ち、「正しい」と思うことをする。それは確かに、人生で大切なことである。

だが、正しさはときに、人生に不調和を引き起こす。自分の正しさが、誰かの正しさとぶつかることがあるからだ。

自分なりの正しさを貫くことは大切だが、それよりさらに大切なのは、幸せに生きることではないだろうか。

そして幸せとは、正解を探した結果見つかるものではなく、日々感じ、味わうことによって見出されるものなのである。

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世界を白と黒だけで理解することはできない

「おかしい」と思うことに声をあげ、間違いを正そうと行動を起こす。

それは人として大切な姿勢だし、その姿勢と勇気を持つ人々の営みによって、この世界は進歩していったはずだ。

その背景には、誠実さや責任感、信念といった、人が持ちうる美徳がある。だがその正しさを固定化させ、執着することによって私たちは、その反対の悪徳を持ちうる。

たとえば、「これが正しく、これが間違っている」という基準のみで人と関わる。すると、それに反するものは「否定の対象」となり、「正されるべき対象」となる。それが行き過ぎれば、その対象を「悪魔化」さえする。

だが冷静に考えてみれば、片方のみが100%黒で、もう片方が100%白ということが、ありうるだろうか。だからこそそれは、私たちを調和から遠ざけ、争い満ちる混沌へと導く。

正しさは本来、私たちを幸せにするためにあるはずだ

正しさは本来、人を幸せにするためのもので、私たちを苦しめるためのものではないはずだ。

人にはそれぞれ、考え方や大切にしている価値観がある。それは、自分にとっての正解が、相手にとっての正解とは必ずしも限らないということを意味する。

だからこそ問われるべきは、「何が・誰が正しいか」を決めるのではなく、「どうすれば互いを尊重していられるか」ではないだろうか。

ここで、ここで、正しさを武器にし、相手を力ずくで従わせることはできる。だがそれをされたほうが心から臣従することはないし、争いの火種はいくらそれを消そうとしたところで、決して消えることはないだろう。

だが、お互いに譲り、受け入れ、共有することで、調和が生まれる余地が生じる。すなわち、正しさを貫けないことは、必ずしも「負け」ではない。ときにそれは、「豊かさ」という、幸せの扉を開くのだ。

幸せは日常の中で見出すことができる

幸せ。それは何か大きなことを成し遂げたり、誰よりもお金持ちになったりといった先に見えるだけのものではない。

私たちは、日々の当たり前と思うその暮らしのなかにある、関わる人、起こった出来事、感じたことなどからその姿を感じ取り、見出すことができる。

「正しさ」や「あるべき姿」ではなく、そこにあるもの、調和に意識を向けることで、私たちは満ちた気持ちに包まれる。そこに、過剰なジャッジは必要ない。それはすでにそこにある。それをどう捉えるかは、私たち自身の問題である。

「間違っている」と主張してもいい。そうすべきことも、確かにあるだろう。だが、「ジャッジを手放す」という、柔らかい心を持ってもいいはずだ。

最後に

「正解」とは、私たちの人生における大切な軸である。軸があるからこそ、物事を判断できるし、自分があるべき姿を追い求めることができる。

だが、それにこだわり続けることで自分を見失い、幸せを見失ってしまうこともある。

だから、ときに間違ってもいい。納得できないことがあってもいい。思うとおりにならなくてもいい。生きるということの最も価値ある瞬間の一つは、「幸せを感じられる」ことなのだから。