「人生から求められているもの」>「人生で求めるもの」という発想の転換

考える美女

生きる意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを知るべきなのだ。

ヴィクトール・フランク

私たちは人生で、様々なことを望む。

富や成功、人間関係etc、幸せになることをのぞみ、豊かになることを望む。それは、ちまたに溢れる願掛け特集や成功本の流行を見れば分かる。

それはそうだ。不幸より幸せの方がいい。貧乏より金持ちの方がいい。孤独より友人が多い方がいい。その方が、苦痛を感じずに済むから。

しかし、フランクルはこう言う。希望の人生を願うよりも、「今自分が直面している現実と向き合い人生で求められている意味を見出せ」と。

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人生で何かを望むこと

私たちはこうありたいという目標(学歴やお金、人間関係)を目指し、その獲得を目指す。そして行動する。

それがたとえ自己都合の欲求に基づいた行動だったとしても、マズローの欲求階層理論に基づけば、成長のために必要なステップである。

モテたい。人からチヤホヤされたい。お金が欲しい。それを求めて行動し、人生で欲しいものを手に入れようとする行為それ自体は、別に否定されるものでもなんでもない。

問題は、その試みがうまくいかず、「こんな人生は自分の人生ではない!」と追い詰められるような状況に直面したときである。人生で一皮むけられるかどうかは、まさにこの瞬間にこそ決まる。

目の前の現実からその意味を見つけ出す

実際問題、人生は決して薔薇色の日々だけではない。ときには不運に襲われ、意に沿わぬ不幸な日々を送ることもあるだろう。

しかし、たとえ不都合な現実が目の前に広がっていたとしても、それが自分に人生において何らかの意味を持つならば、私たちはその現実を乗り越えていくことができる。

なぜなら無意味な苦痛は苦痛でしかないが、痛みを感じていることに何らかの理由を見つけることができるなら、その痛みは決して無意味ではない。

その痛みが今後の人生における貴重な学びになるのである。

それはあなたの人生において「もう二度とあんな経験はしたくない!」という日々を思い出してみればわかりやすいかもしれない。

かつて在った苦痛の日々。その体験は自分にとってどんな意味を持っていたのか。それに納得することができたとき。それをわざわざ経験する必然性に納得したとき。

本当の意味でのブレイクスルーが起こるのである。

最後に

「私はこう生きたいです。こう生きることこそが私の生きる理由です」と人生を自己規定するのではなく、今目の前の現実を直視し、一体自分は何をすべきなのか?その現実が目の前にある理由を考え、そこから意味を見つけ出す。

それこそがまさに、「わたしたち自身が問いの前に立っていることを知るべきなのだ」という言葉の意味である。

すなわち、人は自分に課せられた問いを追求することで、本当の自分になっていく。それが体験価値と呼ばれる人生の価値であり、味わいと言える。

あなたはなりたい自分になれないかもしれない。理想の人生を送れないかもしれない。でもその人生が本当に無価値なのか?答えはもう、分かるはずである。

出典

『夜と霧 新版』