人生はいろいろある。
良いときもあれば悪いときもある。「なぜこんなにも、やることなすことが自然にうまくいくのだろう?」と自然に道が開けていくタイミングがある一方、暖簾に腕押し。「こんなに頑張っているのに・・・」という状況に陥るときもある。
時と場合、状況によっていろいろあるのが人生である。そこで重要となるのが自分自身の選択。すなわちそれは、「人生で起こることに対して自分自身がどのように反応するか?」という選択である。
はじめに
物事がうまくいっているときに幸せを感じたり、人生に希望を感じることはとても簡単である。そうではなく、自分自身がある意味で強く試されるのは、どちらかというと順境より逆境の時である。
いつもうまくできることがなぜかうまくいかない。今まで評価されていたのにむしろ悪く評価されてしまう。頑張りたいのに体が頑張れなくなる。こうした「悪い」状況は長い人生、一定周期で訪れる。
そうした時期が訪れたとき、「もう自分はダメです」「人生あきらめます」という悲観的な態度を選択することはとてもかんたんである。
だがそうではなく、「そうか、今はそういう時期なのだろう。それはきっと、意味があって起こっているのだ」と考え、現実に納得ができないとしてもひとまず現実として受け入れてみる。現状を変えようとあえてあがない。
自分自身の選択はとても重要である。起こった出来事をどのように受け止めるかによって、その後の人生の展開が変わっていくからである。
確かに運命は変えられる部分もある。そして
「今すぐ」「かんたんに」不都合を都合良く変えることができるのであれば、人生は苦より楽のほうが劇的に増えるだろう。
だが実際のところ、現状を変えようと血のにじむような努力をしたところで、状況が変わらないときは変わらない。それはエゴである。「自分の行動によって現実の何もかも変えることができる」という過信である。
確かにこの世界、そして人生において自分自身の行動によって変えられることもある。だがあがこうがもがこうが変えられないこともある。「時節」というのがその代表である。
だからこそ、人生に逆風が吹きすさぶ時期に重要なのが、自分のエゴを抑えて考え方を変えることである。「自分自身の努力と行動によって今すぐ状況を変えることができる」という過信を捨てることである。
受け入れる。そして道が開かれる
現実がどうであれ、それが起こったことを否定しない。喜ぶ必要はないが、過剰にそれに気を取られない。それが起こった結果、現実において「不利」な事象が発生したとしても。悲しみに心を揺さぶられる日々が訪れたとしても。
「今なぜそれが起こるのかはわからない。だが、それはいつかその意味がわかるかもしれない」と信じて起こった現実をいったん受け入れる。それは運命に対する服従ではない。むしろ、運命に対する自発的な選択である。
そこにはそれが起こるだけの理由があるはず。そう信じて起こった出来事を受け入れる。そして信じる。それは自分の人生に必要な学びであり、過程であると。
もし現実が今すぐ変わらないとしたら、起こったことは起こったこととして向き合う。きっとそこで、気づくことができる何かがある。
そして幾年を経た後、まるでパズルのピースが合うように、「そうか、あのときあの出来事が起こったから」と理解する瞬間が訪れる。そして「人生万事塞翁が馬」ということわざを思い出す。
最後に
『夜と霧』で知られるヴィクトール・フランクルは「人生で起こったこと、それは人生からの問いかけである」と述べた。それは私たちは人生に何かを期待することができるが「人生の方から私たちに期待する何かがある」という視点を示している。
であるならば、今起こっていることがなんであれ、それは人生が告げる何かのヒントかもしれない。起こったことを否定しても、それは起こってしまった。そこからどうするかは、自分自身の選択である。
それが良いこと悪いこと、どんなことであれ「とりあえず」でいい。「今それが起こったことはきっと何か意味があるかもしれない」と、考えてみる。その意味がやがて、明らかになるときが訪れるかもしれない。
人生はいろいろある。望むことだけでなく、望まないことも起こるだろう。だがそれはそれとして起こったのなら受け入れてみる。不必要に抗わない。もしくは受け流す。そのような選択も可能なのである。