「◯◯したからこそ△△が分かる」人生の法則

女性と平原

どんな文明にも光と闇がある。光は闇があることによってかえってきわ立つのである。

西尾幹二

人生には「◯◯したからこそ△△が分かる」という法則がある。

お金に困った経験がある人はお金の価値、そして使い方を学ぶことができる。孤独を知るものは人の親切さや温かさを感じることができる。妥協をするからこそ信念を貫く難しさだけでなく、信念を貫く生き方を尊重することができる。

人生で起こることが、それが起こる必要があった何らかの「学びの機会」であるとするならば、日々起こることにはそれ相応の、「◯◯したからこそ△△が分かる」何かがある。

私たちが意識を向けるべきは、今そこにある障害や試練ではない。「それらを経験したからこそ分かる何か」なのである。

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はじめに

完璧な人生に意味はない。完璧とはすべてが満たされており、すべてが思い通りになる状態である。ゆえに問題や障害、悩みや葛藤といった経験は存在しない。

何一つ不満はなく、お金及びお金で手に入れることができるもの、愛情、健康、社会的地位、なんでもいいが欲しいものは何でも手に入る。それはまさしく、「すべてが思い通りになる人生」である。

だがもしも私たちが「人生」を通じて今ここで何かを学ぶためにこの世界に存在しているのであれば、完璧な人生ほどくだらない人生はない。生きる意味を感じにくい人生はない。「すべてが思い通りになる」がゆえに何一つとして学びようがないからである。

逆説的な話だが、私たちの人生は「思い通りにならない」からこそ生きる意味を実感することができる。それは人生に、「◯◯したからこそ△△が分かる」という法則の通りである。

すなわち悲しみは喜びを知るために。不幸せは幸せを知るために。貧しさは豊かさを知るために。孤独はつながりを知るために。人生で起こることにはそれ相応の、役割と気づきがあるのである。

マイナスの経験はやがてプラスの経験として反転する

幸せとは何か?それを最も強く、味わい深く感じるためにはお先真っ暗のどん底や不幸を経験する必要がある。「もう、私の人生は積んでしまったのでは?」という精神の極限に到達するからこそ、幸せを感知する感性が著しく発達するからである。

その一方、すべてが満たされており不満はない。困ったこともなければ、明日のことを考えて不安に夜も眠られないようなこともない。そんな状態は望ましいことかもしれないが、満たされているからこそ衰えてしまうものも確かにある。

人生で起こることは経過であり、やがて反転する。だからこそ「◯◯したからこそ△△が分かる」。人生で起こる問題は確かにその時点で問題かもしれない。あなたの心をざわめかせ、平穏な日々を奪うかもしれない。

だが繰り返す。それは経過である。やがてそれは、「◯◯したからこそ△△が分かる」という現実へたどり着く。今あなたが悩んでいること。直面していること。それはそのマイナスが反転したものを、あなたは手に入れることができる可能性が、ある。

それは伏線。

価値が分からないにも関わらず、それを与えられてしまうことはこの上ない不幸である。価値が分かってこそその価値を、存分に実感することができる。

だからこそ不幸せな経験は幸せを知るための必要不可欠な過程である。すなわち、人生の困難に直面し、試練が立ちはだかっているあなたは、幸せになる権利が与えられたことを意味する。

今目の前にある現実はやがて、終わる。そしてそれは、「あの時期は本当に大変でした、だからこそ今はとても穏やかで幸せな日々を・・・」というハッピーエンドを迎えるための伏線である。

「光は闇があることによってかえってきわ立つ」のは闇が闇だからこそ、かすかな光に敏感になれるからである。だから今そこにある困難は、決して無意味ではない。それはやがて、あなたの人生において意味を示す。光はやがて、差し始める。

最後に

俳優の唐沢寿明さんが著書『ふたり』で次のようなことを語っている。唐沢さんが新人俳優として注目を集め始めた頃、同世代の二世俳優と買い物に行ったときの話である。

お店で4万円の革ジャンを見つけた二世俳優が唐沢さんに「安いから買いなよ」と言われ、俳優になるまで苦労を重ねた唐沢さんにとって、その金銭感覚の違いに驚いたことを語っている。

「金銭感覚」という言葉があるように、お金に対する感覚は人によって違う。その違いはそれまでの人生経験によって決定されるが、こうした人生経験による感覚の違いはお金だけの話ではない。

「ない」を知らないのに「ある」の意味を説くことは難しい。想像は所詮、想像である。体験に勝る価値はない。だからこそ「ない」を知る人は幸運である。「ない」が「ある」に変わったとき、その意味、そしてその価値を、理解することができるのだから。

出典

『日本と西欧の500年史』