人生に(外から与えられた)正解を求めるな

うつくむ女性

学校の教育では、特定の人為的尺度、つまり試験やテストの成績で成長を評価されます。

テストの正解だけが、絶対的価値を持ち、それ以外の答えはすべて誤りとされます。成績が悪いと、人間として劣っているかのように見られることもあります。

このような特定の価値観を啓蒙するような教育では、知識の累積はあっても人間としての成長を感じることはできません。

決められた答え以外は間違いとされる監獄で暮らす囚人が、模範囚となるためにせっせと正解といわれるものを覚える努力をしているようなものです。

これでは、どんどん自己を失い、人間本来の内面の成長が置き去りにされてしまいます。

これは「憑依」という状態に似ています。一般的には、取り憑くのは、おどろおどろしい悪霊や霊媒と思われがちですが、本来は、自己の意思を何者かに乗っ取られる状態です。

現代人は、啓蒙という名の「価値観の強要教育」によって、あるいは何者かに支配されたメディアの情報によって、本来の自己意思による思考や判断力を失い、与えられた価値観に支配されているように思えます。

自ら体験し考えて確かめた尺度によらず、ほかから与えられた尺度に依拠した思考や行動は、まさに現代特有の自己喪失の「憑依」状態といえるのではないでしょうか。

荒谷卓(『サムライ精神を復活せよ!』)

あなたは、買い物をするとき、仕事を選ぶとき、何かをするとき、「間違いたくない」「失敗したくない」と、自然に考えてしまう自分に気づく瞬間はないだろうか。

人生の進路。社会での自分の在り方。人付き合い。学ぶこと。日々のあらゆる事柄において、失敗せず、正しい選択をしたいと考えて行動する。それを、「正解主義」と呼ぶ。

正解主義は、次の前提をもとにしている。すなわち、「物事には正解と不正解がある」という前提である。そこで一つ、この機会にぜひ考えてみてほしい。

物事に、100%完全に間違いのない正解は存在するのだろうか。もし、その正解があるのであれば、私たちは何を基準にして、「それは正解である」と結論づけているのだろうか。

私たちは、いつの間にか「正解を求める構造」の中で生きている。そして、正解があると思うからこそ、自分自身の基準を持てなくなってはいないだろうか。それが、この記事のテーマである。

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はじめに

正解主義。

それは、いわば、自分自身で導き出した答えというよりはむしろ、「外から与えられた」基準に基づく生き方を指す。

「学歴を得る」

「大手企業に就職する」

「定年まで勤務する」

「結婚する」

「マイホームを手に入れる」

「正解」と言われることは枚挙にいとまがない。

だが、なぜそれが正解なのか。本当に正解なのか。考えてみれば、その根拠に確信が持てないことは少なくない。

そして、正解と思い込んだことの多くは、「自分自身の経験で導き出したこと」というより、家族や先生、身近な誰か、インフルエンサーが言っていたことであったり、TVや新聞、ネットで書かれていたことであることに気づく。

そう、私たちが考える「正解」の多くは、誰かが決めた尺度にしかすぎない。そして、その本質的な問題はシンプルだ。「物事には正しい答えがある」という前提に基づき、その正解を誰かに与えてもらおうとする、思考構造そのものにある。

それは言わば、自分自身の人生の主導権を、意識するしないに関わらず、誰かに差し出していることを意味している。

「正解主義」が生まれる場所

「正解はある」

なぜ私たちは正解にこだわるのか。間違いに過剰反応するのか。その第一歩は、幼い頃から繰り返される習慣にあるのかもしれない。

たとえばテスト。私たちは子どもの頃、学校に行き、テストの点数によって、人としての価値を認識させられる。

学校のテストにおいては、「必ず」正解と不正解が用意される。それは極めて人為的な尺度である。そして、用意された正解を選ばないことによって、私たちは、

「良い学校(評価が高い学校)に進学できない」

「能力が低いと判定される」

などの不利益を被る。

つまり、「正解を見つけることは良いことであり、それ以外はダメである」という思考が、徐々に刷り込まれていく。

もちろん、世の中には1+1=2のように、決められた答えを持つものもある。だが、私たちの人生、つまり「どう生きるか」という問いには、明確な答えは存在しない。

にも関わらず、私たちは人生にも正解があるかのように考え、「決められた答えを覚える努力」をする。それはまるで、「模範囚になるための訓練」のようなものだ。

そして、外部評価への依存が習慣化すると、自分自身の判断基準を形成する機会は、少しずつ失われていく。

誰かが用意した答えに従うことに慣れれば慣れるほど、自分で考え、修正し、より良い答えを見つけようとする内面的な試みは、過小評価されてしまうからだ。

現代の「憑依」。それは他人の尺度に支配される自己喪失現象

「(本人が意識するしないに関わらず)これが正解だ」と用意されたものに基づき、考え、動くこと。それこそが、現代における、ある種の「憑依現象」である。

ここでいう「憑依」とは、オカルト的な意味ではない。「自分の意思や判断を、他者の尺度に支配されている状態」という意味である。

たとえば、このようなことはないだろうか。ある事柄について、自分なりに詳しく調べ、具体的・客観的なエビデンスを用意した上で意見を言う。

すると相手は、「それは違うでしょ。だって、メディアで言ってたよ」と言い、聞き入れようとしない。

もちろん、自分自身もまた、思い込みや間違いから完全に自由になることはできない。だが、それでもなお「自分で調べ、考え、判断する」という行為それ自体が、大きな価値を持つはずだ。

当の本人は、「自分は正しいことを話しているつもり」かもしれない。だが実際は、自分で考えずに、「正解」だと思い込んだものを反復しているだけかもしれない。

SNSのいいね数やインフルエンサーの発言、メディアが集中的に報道する内容。そうした外部から発信される情報を、「自分の意見」であり、正解であると認識してしまう。

その結果、本人に自覚はなくとも、「自分の意思や判断を他者に乗っ取られている状態」で、誰かの価値観を反復するようになってしまう。それはまさしく、「自己喪失の憑依状態」である。

最後に

たしか、2020年頃だったと思う。

「これからは、自分で考えること、感じたことを大切にしないと、間違った場所へ行き、後悔する人生を送ってしまう」

そんな感覚を、漠然と抱き始めた。そして今、その直感は間違っていなかったと思っている。

学歴の高さと、頭の良さは必ずしも比例しない。なぜなら、物を覚える能力と、自分で考える能力は、無関係ではないものの、完全に一致するものではないからだ。

知識は重要だ。だが、知識を絶対視して自分自身で考えることをしなければ、人は簡単に、誰かが作り出した考えや価値観に「憑依」されうる。

正解を探してもいい。だがそこには、一つ不可欠なものがある。自分で物事の是非を考える、「価値判断能力」である。

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人間
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