「もしあのとき、○○でなかったら」人生はそんな偶然に左右されている。

花畑にたたずむ女性

「もし、私があの時、叔母たちの奨める縁談を拒絶したい気持ちがなかったなら」「もし私が、父を憎み亡母を思慕する気持ちがなかったなら」私はこの妻との結婚はもちろん、交際もしていなかったであろう。

同じように妻も「もしその助手に黙殺されたという寂しさを味わっていなかったなら」我々は生涯、水呑み場で水を飲んで運動場の左右に分かれていく二人の小学生のような関係しか持たなかったであろう。

だが、この「もし」がなかったため、私たちは現に結婚している。この偶然を我々の人生のなかで織りなしている存在は一体、何なのか。

遠藤周作

「もしあのとき○○だったら」

人生はそんな偶然の出来事によって、大きく左右される。

それは、「私は○○を選びます」という自由意志よりも遥かに大きな意味を持って、私たちの人生にのしかかってくる。

だからこそ深く考えざるをえない。「偶然」の意味について。

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はじめに

生きることは不思議なことだと、強く思う。

自分の人生。今ここにある生活。自分がやるべきこと。日々関わっている人々。人生に深い痕跡を残した人々との縁。それらは果たして本当に、自分の意思によって導かれた「結果」なのか?正直なところ、自信が持てない。

もし私が20歳になったばかりの頃、夢に挫折し書店でたまたま大学受験の本と出会わなければ。私は京都で大学生になっていなかっただろう。

もし私が大学4年時に就職活動に失敗しなければ。私が「自分の理想の人生」を思い描くことはなかっただろう。

もし私が29歳のとき、転職で私の人間観が一変するほどの致命的な選択ミスをしなければ。北の大地での夢のような6年間の暮らしは、実現されなかっただろう。

こうして自分の人生を振り返ってみると、自分の人生は本当に、「もし~だったら」という出来事が繰り返し起こっていることを、認めざるをえない。

問題は自分がどう受け止めるか

人生には、「自分で意識した(意図した)結果」起こる出来事と、「自分で意識していないにも関わらず」起こる出来事がある。

そして、どちらが「結果として」自分の人生に大きな影響を与えたのか?それを考えたとき、「偶然の出来事」がもたらす人生への影響力について、深く考えざるをえない。

人生。仕事。人間関係。そこにはきっと、自分の意思とは無関係なところで、「何か」が影響していることだけは、確かなのだろう。問題はそれをどう受け止めるか、である。

ここで私たちには2つのチョイスが与えられている。

1つは「その出来事のせいで○○になってしまった」と否定的に捉えること。もう1つは、「偶然の出来事にしろ、そうなってしまったことにはきっと、自分の人生において重要な意味がある」と肯定的に捉えること。

この2つである。

予想通りの人生を生きることは「正解」なのか?

もしかしたら、「自分が思い描いたとおりになる人生」こそが、理想の人生かもしれない。

自分で「人生とはこういうものである」という青写真を描き、自分の意思と足でそこにたどりつく。それはたしかに、理想なのかもしれない。

ところが現実には、自分が左へ進もうと「意思」を持ったとしても、自分の「意思」とは関係ない「偶然」の要素によって、右へ進まされることが度々起こる。その結果、良きにしろ悪きにしろ、人生では「想定外」が起こる。

この意味で、偶然とはいわば人生の「異物」なのだが、なぜ「異物」が人生に突如として侵入してくるのか?その偶然にこそ、何らかの意味がないだろうか?自分の人生を振り返ると、強くこの疑問が繰り返し、頭にもたげてくる。

最後に

人生が思い通りにならないこと。想定外の出来事によって狂うこと。それを「悪い」と考えるのは「常識的」な思考なのかもしれない。

しかし、生きることそれ自体が「不思議な経験」であるならば、偶然によって「そうなってしまった」人生の出来事に意味を見つけることもできる。そして今は理由が分からなくても、それが起こる意味がきっといつかはわかる。

何かを成し遂げること。幸せに生きることは目的ではない。

なぜあなたはAさんではなくあなたなのか?あなたの人生はBさんと違うのか?人や常識で比較をするのではなく、人生で起こる偶然によって導かれた「現実」という結果が一体どんな意味を成すのか?

それに気づくこと自体がきっと生きる目的なのだろうと、思う。

出典

『影法師』