どこで自分探しをしてもそれは見つからない、なぜなら

自分探し

僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。

僕はいつもどこか新しい場所に行って、新しい生活を手に入れて、そこで新しい人格を身に付けようとしていたように思う。

僕は今までに何度もそれを繰り返してきた。それはある意味では成長だったし、ある意味ではペルソナの交換のようなものだった。

でもいずれにせよ、僕は違う自分になることによって、それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。

僕は本当に、真剣に、それを求めていたし、努力さえすればそれはいつか可能になるはずだと信じていた。

でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。

僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。

どれだけまわりの風景が変化しても、人々の語りかける超えの響きがどれだけ変化しても、僕はひとりの不完全な人間にしか過ぎなかった。

僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。

僕はずっとその飢えと渇きに苛まれてきたし、おそらくこれからも同じように苛まれていくんだろうと思う。

ある意味において、その欠落そのものが僕自身だからだよ。

ハジメ(村上春樹著『国境の南、太陽の西』の主人公)

自分は一体どんな人間なのか?

どんなことができて、どんな生き方をして、どんな人生を送るか?誰もが一度は考える問いだと思う。

それは、「今の人生は何かが違う、今の場所は自分が居べき場所ではない」という現状の否定から始まる。

そして、仕事を変えたり本を読んだり、旅に出たり引っ越ししたり、いろんな自分探しが始まる。自分の可能性を追求し、自分が誰なのか、何をすべきなのかを探求する。

そのことは、長い人生、とても大切なことだと思う。なぜなら、自分探しをすることによって見つかる自分も確かにあるからだ

ただ、本当の自分が何者なのか、そうかんたんに見つかるものではない。いつかどこかで、現実と折り合いをつけ、自分探しを止めるべきときがやってくる。

でも不思議なことに、さんざん自分探しをしたあとで気がつくのは、「自分はやっぱり自分だ」という感覚だ。

それは決して変えられない本質的な何かで、そこに、自分が自分であることの意味を感じられる。

そのときはきっと、自然とその自分を受け入れることができる。自分の気に食わないところも欠点も、それ相応の意味があることに気がつく。

そして、もう自分を、他のどこかで探す必要がないことに気がつく。

そのとき、初めて、きりが晴れたように、自分の歩むべき人生に、強い確信をいただくことができる。「自分は自分、自分にしかなれない」と。

出典

『国境の南、太陽の西』(講談社文庫、1995年)