じつは、ほんとうの幸福などないのだ。
あたかも純粋な三角形がこの世になく、この世ではいつもゆがんだ三角形をみているように、われわれがこの世で出会う幸福はいつもゆがんでいる。
しかも、それはそれ自体がゆがんでいるのみならず、真実を隠蔽する。ゆがんだ幸福の眼で見ると、われわれは真実が見えなくなるのである。
だから、本心から真実を見ようとするなら、幸福であることをあきらめねばならない。
中島義道
ある人は、「不幸こそが現実で、幸福は幻想である」と言う。
かりにもし、生きることは不幸の連続で、幸せなど存在しないとしたら、生きる意味はどこにあるのか?
こう考えると少し悲観的過ぎる気もするが、確かに、世の中、ハッピーハッピーではいられない、不幸なものが満ち溢れているのも確かだ。
生きることは楽しいこともあるけれど、人間関係、仕事、お金、生きていくことは、喜びもあるだろうけど、苦しみがつきまとう。
生老病死愛別離苦、どうしようもない不幸があって、そのような現実を乗り越えるため、幸せを探すのかもしれない。
もしくは、幸せだと思い込んで生きていくことによって、様々な現実を見ないで済まそうとするのかもしれない。
幸福は幻想でいい
でもここで、最初から「生きることはそもそも苦しい、幸せなど存在しない」と考えて世の中を見てみると、わざわざ幸福を探さなくても、やっていけることに気がつく。
人間関係の悩みも仕事の悩みも、もうそれは仕方ない。世の中にはいろいろグレーゾーンがあって、どうしようもないことも多い。でもそれでいい。
「幸福なんかない」ということを受け入れることで、多少、息苦しさが和らぎ、目の前の現実を、それがどんなものであれ、多少は受け入れることができるだろう。
不思議なことに、苦しい現実を否定せずに受け入れて、幸せになることを諦めると、以前より、心がほんの少しだけ、軽くなっていることに気がつく。
そして、いちいち幸せなんて探さなくても良いことに気がつく。幸せでなくても、生きていけることに気がつく。
諦めることは悪いことではない
人生、諦めてこそ気がつくことがある。
それを真実と言うか何と言うのかは知らないが、求めていても得られないものは、諦めてしまえばいいのだ。
その方が心が快適だし、むしろスッキリ割り切った方が、きっといいことがたくさんあるだろう。
自分の幸せが見つからない。どう考えても自分は不幸である。これからの人生希望さえない。もしそうならそうで、それで構わない。
すべてを完全に割り切った瞬間、心はすっと軽くなる。そして不思議なことだが、そこから道が見えてくる。
人生はどんなときも捨てたものじゃない。素直に何かを諦めれば、それはそれで、いいことがあるのだ。
出典
『不幸論』