その苦労、その悲しみは何のために存在するのか?

たそがれる美女

人がもし、病気ひとつせず、成績優秀で人後に落ちたことがなく、経済的な苦労をひとつも知らず、一流校に入り、一流の会社に勤め、一度も失恋したことがなく、人より早く昇進、出世したとしたら、いったいどういう人間ができあがることだろう。

よほどの謙虚な人間でないかぎり、人を見下し、思いやりのない人間になってしまいはしないだろうか。

三浦綾子

世の中にはいろんな人がいる。

日夜苦学し、必死に勉強したにも関わらず、志望校からは不合格の憂き目に遭い、世の中の辛苦をなめる人がいる一方で人生超イージーモード。

たいした努力をしなくても、親の権力によって名門校に裏口入学し、社会の美味しい汁を吸わんとする卑怯者もいる。

このような事実がある以上世の中は決して公平ではないが、公平ではないからこそ、そこに人間の格が現れる。

それは、社会的に偉いとか、得をするとか、そういうチンケな話ではない。まさに人としての格。人間性の話である。

この意味で、世の中で辛酸をなめ、努力が報われない悲しみを味わい、自分の想いが報われない辛さを知る。

その経験は決して無意味ではない。なぜならそれは、人間として大きく成長できるチャンスだからである。

人生の理不尽さを味わい、世の中の不平等さを実感したそのとき、

「自分がこんな苦しみを味わったのだから、人にもその苦しみを味あわせたい。世の中に自分のような不幸な人を増やしたい」

というように、人として堕ちていく選択もできる。

しかし一方で、

「自分はこんな苦労をしたからこそ、他の人にはこんな苦労をさせたくない。だから人には優しくなりたい。苦しんでいる人の支えになりたい」

というように、人として成長することもできる。

その選択は常に自分で選ぶことができる。

苦労したとき。悲しい思いをしたとき。理不尽な思いをしたとき。それをプラスにするにもマイナスにするのも自分次第。

必ずしも善人を目指す必要はないかもしれないが、だからこそせめて、人として恥ずかしくない道を選びたい。

それこそが、世間から後ろ指を刺されず、自分の人としての格を貶めない、真っ当な生き方なのだから。

出典

『愛すること信ずること』(講談社文庫、2004年)