自己浪費は、ときに自分が無価値であることをごまかす方法である。それによって、われわれは、浪費に値するものがあるかのように見せかけることができる。
エリック・ホッファー
昔の偉い人はこう言った。「部屋で静かにじっとしていられないことが、悲劇を生む」と。
自分と静かに向き合うことは、実はとても難しい。しかし、ただじっと自分について考え込むことが自分と向き合う唯一の方法ではない。外部を通じて刺激を得るという出来事もまた、自分を知るための方法である。
「今は静かに自分と向き合いたい」という気分ではないのなら、身近な刺激や欲に動かされる日々もまた一興である。それはあなたにとって必要な気づきの過程かもしれない。
はじめに
私たち人間が持つ欲望に限りはないという。たしかに限りない欲望を持つ人はいるかもしれないが、たいていの人は、欲を一定の範囲満たすことによって、それは十分に満たされる。
欲しいものを手に入れる。美食。快適な暮らし。高価な衣類。刺激的な交友関係。
それらを満たしつつある段階で徐々に、自分にとって本当に必要なものと、そうではないものに気づき始める。この意味で、欲を満たすことは学びと成長の過程である。
私たちは最初から聖人になることはできない。そしてそもそも、聖人を目指す必要もない。
俗人として欲を素直に肯定する。欲しいものを欲しいと思う。「私には○○が足りない」という気持ちを否定せず、必要なだけ手に入れる。このシンプルな行動によって、「何かがおかしい」と気づく。
その段階に達するまでは、欲を満たすための浪費を続ければいい。お金はあくまで、道具である。
問題は、いかに生きたか。
「お金を無駄遣いしてはいけない」
道徳は確かに正しい。しかし道徳以上に意識すべきなのは、「私たちは何のためにこの世に存在しているか?」という本質である。
人生で一度も失敗しない。欲しい物も買わずに、したいことも我慢してお金を節約し資産を作る。そんな人生はほんとうに、豊かだろうか?
将来設計ゼロでお金を使い続け、享楽の日々を送った結果、「キリギリス」のように野垂れ死ぬ人生。健康を考えず好きなものを食べ続け、その結果体を壊し早死する人生。
それらは「愚か」な人生かもしれないが、ある意味で「幸せ」な人生でもある。なぜなら、私たちが問うべきは「何年生きたか?」かではなく「どのように生きたか?」だからである。
求めるものを誤認するな!
自分自身のことを客観的に知る方法の一つとして断捨離がある。
断捨離のポイントは物を捨てる行為それ自体ではなく、捨てるものと残すものを選別すること、すなわち価値観の整理整頓にその行為の本質がある。
自分が求めること。そして求めないもの。それらを取捨選択することによって、自らの価値観を再認識し、自分を知る。
したいことを我慢し続ける人生は苦行である。そして、残るのは後悔である。自分が求めるものを誤認し続けた結果、「私は実は、これが欲しくありませんでした」というものが身近にあふれていることは、悲劇である。
それは最終的に、「やりたくないことばかりに追い立てられ、最期の最期に後悔ばかりがつのる人生」へとつながっていく。
最後に
私たちはこの世界に、ほんの短い間のみ滞在する。
この世界において、すべては借り物であり、私たちは何もかも永遠に所有することはできない。この自分自身の体でさえ。唯一残るのは、記憶という名の経験である。
どこで暮らし何をし、誰と時間を過ごし、何に喜びを感じ何に涙を流したのか。そうした経験のみが、私たちが本当の意味で所有することができる、唯一のものである。
だからこそそれができるなら。それをしたいなら。今それをすればいい。欲がそこにあることを素直に肯定すればいい。欲しいものを欲しいと認めればいい。
自分に正直になる。その刺激によって生じたドラマこそが最終的に大切な記憶となり、「この世界に存在した」という、重要な意味になるのだから。
出典
『魂の錬金術』