顔を高く上げようとしない若者は、いつしか足もとばかり眺めて生きるようになるだろう。空高く飛ぼうとしない精神は、地べたをはいつくばる運命をたどるだろう。
ディズレーリ(『自助論』より)
「自分は◯◯である」
この自己規定、すなわち自ら定める意志こそが、人生の行く末に大きな影響を及ぼす。
いかに目の前に激しい逆風が吹こうとも、「私は必ず生き残る」と決意した者は逆風に耐え生き残り、必要な時を経て再び、晴天の下で穏やかな日差しを浴びることができる。
「私は(私にとっての)最高の人生を生きる」と覚悟した者は、その道中に幾度も障害が訪れようとも、不思議な運命の配慮を得て、やがて最高の人生へとたどり着く。
私たちは自らの運命を完全に定めることはできないかもしれない。だが少なくとも、自らの意志によって行く末を選ぶことはできる。人生には多少なりとも、選択権が常に与えられている。
はじめに
人生とは、日々訪れる障害、困難、悩み、苦しみ、不如意な現実に対し、私たちが何を選び、行動するのかである。人生で起こることに対してどのような行動を起こすか、すなわち「与えられた問いに答えること」によって紡がれていく物語である。
問われた問いに対して答えていくこと。それこそがまさに人生である。ゆえに人生とは、表面上どのように見えようとも、人それぞれ「固有」である。だからこそ意味は「与えられる」のではなく、自ら「見出す」ものである。
どのような現実があろうとも、今起こっている意味を「解釈」し、希望を見出すことができる一方で、「もう私はだめだ」と絶望を見出すこともできる。また、「今はだめでもこれから良くなる」という予兆を見つけることもできる。
そしてその物語は、自らが見出した意味によって、その後の展開を変えていくのである。
重要なのは「正解」を選ぶことではない
例えば、人生がうまくいっていないとき。
人生がうまくいっていない現実を「それは私の人生が詰んでいる証拠である」と解釈し、それらしい証拠を集め、自分の未来、そして人生をあきらめることもできる。そしてそもそも、人生には往々にして、私たちに人生をあきらめさせようとする困難な出来事が起こる。
だがそこで、「この困難にも何か意味があるはずだ」ととらえ、そこから肯定的な意味を見出すことができたならば、困難な出来事は自分を苦しめるためのものではなく、自分の成長、そしてその先に待つ幸福のために必要な課題であると考えることができる。
ここで重要なのは、「どちらが正解なのか?」を問うことではない。「どちらを選ぶのか?」という自分自身の選択である。
自分自身の選択。それこそが未来を決める!
人生で起こることをどのようにとらえ、考え、そして行動するか。それこそがまさに自分の運命を自ら決定づけることである。外的な出来事それ自体がどうというより、自分自身の選択の方がその重要度は高い。
人生は、どんなときであれ「顔を高くあげる」こともできるし、「足もとばかり眺めて生きる」こともできる。それは自らの意志によって選ぶものである。
どんな最悪の状況であれ、そこに困難だけでなく、それが起こる必然的な意味を見出すこともできる。どんな最高の状況であれ、その意味を誤認してその先の道を踏み外すこともできる。
どちらを選ぶのか。その選択肢は自分自身に与えられている。人生に希望を見出すのも自分であり、希望を捨て去るのも自分なのである。
最後に
考えてみればたしかに、人生は何が起ころうとも「塞翁が馬」である。起こった出来事は、その後、良いようにも悪いようにも変わりうる。
意に沿わない現実が訪れたとき、それでも胸を張って前を向くことを選ぶこともできるし、それを人生が自分にダメ出しする「証拠」として理解し、未来への希望を捨て去ることもできる。
だからこそ、起こった出来事に対する自分自身の意味付けは重要である。それが決めるのだ。その先に待っている、自分自身の未来の姿を。
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